第二章 悪の組織と警察官

 その日、新米刑事の村田恭介とその先輩にあたる大木大輔は覚束ない足取りで駅前通りを歩いていた。その表情はひどく眠そうで、少しでも注意してみたならば、二人の目の下に薄っすらと隈が出ているのが分かるだろう。
 夜勤明けゆえの寝不足である。彼らは、前日から今朝にかけて張り込みを行っていたのだ。
 とある筋の情報を元に彼らが張り込みを始めたのは昨夜の九時のこと。もう、春とはいえ夜の冷えることには変わりなく、寒空の下で震えながら電柱の影に身を潜め、日付が変わるのを確認したのはもう八時間以上も前の話だ。それでも、何時現れるかも分からない犯人を待っていたにもかかわらず、拝めたのは犯人の顔ではなく朝日だけとは余りに救われない話である。
「くそ、やっぱりガセだったか」と大木は苛立たしげにグチるのも無理はなかろう。もっとも、その怒りを道端の空き缶にぶつけるのはいかがなものだろうか?
村田はそんな大木を一応はたしなめようとするものの、そのたしなめかたはなんだが投げやりだ。彼も疲れているのだからしょうがない。
 二人はフラフラとした足取りで駅を目指す。その口数は少ない。疲れがピークに達しているため、言葉を話すのも億劫なのだ。本当はタクシーを拾って返りたいのだが、そんなものは安月給である彼ら二人に許されるはずもなく、電車を使うしかない。その電車を使うしかないということが、今日の彼らの最大を不幸が襲う引き金になるのだが、未来を予知できない彼らがそんなことを予想できるはずもなく、彼らは何の心の準備も無しに駅のロータリーへと足を踏み込んでいった。
 さて、初めにそのことに気付いたのは、果たしてどちらだっただろうか。大木の方であろうか、村田の方だろうか。あるいはほぼ同時だったのかも知れない。ともかく、事実として言えることとすれば、駅に入った瞬間、彼らが空気が変わったのを感じたのは確かなことだ。
 別に、急に温かくなったとか、冷たくなったとかそういうことではない。雰囲気というものなのだろうか。それが、いつもの駅とは違ったように思えたのだ。気のせいかもしれないが、何処となく人々の視線がある特定の方だけに向いてないような…
 なんとなく気になり、彼らはその方向へと視線を向けた。そこに映るのは、いつも見慣れている犬の銅像の姿。ただ、いつもと違うところが一つだけある。犬の銅像の背中に人が立っているのだ。それもただ立っているだけではない。もっと正確に言うと犬の銅像の背に立って高笑いをあげていた。また、その姿も普通とは言い切れない。服装はスーツ姿と普通なものの、顔にへんてこな仮面をつけているのだ。
 そして、何よりも異様なのが…
「…先輩。 なんで所々嗚咽が混じっているんですかね」
 その変質者の笑い声は半泣きで、所々「ぐす」や「ひっく」などといった嗚咽が混じっている点だ。これは、人々が目を背けるのも分かるというものだ。
「知るか。それより…
 俺はすごく帰りたい気分なんだが、やっぱりだめだよなぁ」
 大木だってもちろん見なかったことにして帰りたい。変人とは関りたくないというのが全国の人間に共通する認識からだ。しかし、彼らの仕事はそれを許さない。税金で飯を食わせてもらっている身の上、そんなことをすれば、それは国民に対する立派な背信行為だ。駅前の交番勤務は何をやっているんだと苛立ちを覚えるのだが、巡回にでも行っているのだろう。でなければ、さっさとあの変質者をさっさと銅像から引き摺り下ろしているはずである。
「そういえば、最近変な格好をしたような奴がよく出没するって、地域課の奴が言ってたなあ」
 大木は同期で警察学校を出た友人の顔を思い浮かべながら、深くため息をついた。
 そこにあるのはその友人への同情と、その友人のやっかいごとにこれから首を突っ込んでいかなければいけない状況にある自分の不幸だ。心の中ではすでに何度も「やってられるか」と叫んでいる。
「全国ところかまわず、でしたっけ…
 確か、悪魔みたいな格好をして暴れるとか、なんとか。あれもその一つでしょうか?」
「もうすぐ夏とはいえ、まだ春だ。そういう奴もいるだろう」
大木はやれやれといった様子で肩をすくめる。そこには関りたくないというオーラが立ち込めていた。
「とりあえず、話が通じることだけを祈りましょう」
 最後に村田が慰めるように、あきらめるようにそう締めくくると、泣く泣く彼らは不審者に近寄っていった。

 一茶はひとしきり銅像の上で高笑いを上げた後、周りを見渡した。
 見渡したと言っても首は全く動かしてない。それどころか眼球をも動かしてなかった。それは彼の今つけている仮面の所行である。
 紡が一茶に衣装として渡したこの仮面。なんと驚くことにつけただけで彼を中心とした三百六十度の視覚的情報が脳に送られるようになっているのだ。まあ、それがなければ穴の空いていないこの仮面はつけたところで視界がゼロになってしまうのだが。こんな技術があるんだったら他のことに使えよとは思うものの、その言葉は胸のうちにしまうことにする。誰しも、蛇が出てくると分かっている藪をつつきたくないのだ。
 一茶はため息をつきながら、次にやるべき行動を思い出す。確か、作戦マニュアルには高笑いをあげて民衆の意識をこちらにむけた後に演説をすると書かれていたが、やっぱりこんな人間とかかわりたくないのか、通行人は皆そそくさとこちらをなるべく見ないように通りすぎていくだけである。全国津々浦々、不審者騒ぎが起こっている昨今。自ら厄介ごとに首を突っ込む奴はやはりいないのだろう。三百六十度、どの方向を見たとしても足を止めている人間はない。ビバ、事なかれ主義日本といったところか。
 もっとも、そちらの方が一茶にとって逆に都合がよいのだが…
 周りの人間もこんな人間に関わりあいなりたくないだろうが、一茶もこんなことで他人と縁を結びたくはないのだ。
マニュアル通りにやって失敗しても文句は言いようがないだろうと考えながら、演説を始めようとする。こんな状況、一茶としては早く終わらせたい。一茶は特殊な目をもっていても、あくまで一般人。羞恥心というものはもちろんあるのだ。
 普通では味わえないような、そして味わいたくないような緊張感で震える体を抑え、一茶はなんとか口を開こうとするのだが、その動作はふいに止まってしまった。
別にどうというわけではないのだが、彼の瞳に背広姿の二人の男性が映ったのだ。
 休みの日だとしても日曜出勤の会社員もいるだろう。背広姿の男がいてもおかしくもなんとも無い。しかし、問題は奇特にも彼らが一茶に近づいてくるという点だ。
 知り合いではない。知り合いだったらもっとうれしくはないだろうが、ともあれ一茶はその二人組みに見覚えなどなかった。なのに彼らは近づいてくる。その視線が一茶に定まっているのは明らかだ。何の用だと思うと共に、来ないでくれと一茶は願うものの、その思いは届きそうにない。彼らは断固とした足取りで一茶の足元まで来る。こちらに関ってくる気は満々のようだ。ごそごそとうちポケットをまさぐって出したものは最近新しくなった警察手帳。
 公僕である証だった。
ああ、警察の方だったんですねと一茶は納得するとともに、止まりかけていた涙の量が増えるのを感じた。
「君、警察だ。
 そこからまず降りなさい」
 二人の内、年配の男性が発するのはこちらを威圧する言葉。その語彙の威圧感と国家権力の前に、彼は一瞬従いそうになるのだが、足を動かそうとしたところでその動きは止まることとなった。ここで降りたらマニュアルに反することに気付いたのだ。
 マニュアル注意事項そのT、行政にはあくまで反論すること。
 本当は警察の人に謝って帰りたかったのだが、そうした場合どんな罰則が部長からくだされるか分かったものではない。あの人のことだから笑いながら死にはしないけど命にかかわるようなことをやらされるような気がするのだ。
一茶は思い出す。ここに来る前、大牙に「行ったふりをするだけじゃいけないんですか?」と聞いたときのことを。あの時の大牙の顔色は尋常じゃなかった。
「やめておけ。命令違反は重罪だ。もしバレたら生きていることを後悔する目に合うぞ」
彼の言った言葉である。過去に何があったのかは知りたかったが、怖くて聞けなかった。
故に激しく言いたくない。言いたくないのだが、一茶は部長の命令に従うべく「ことわる」と口をうごかした。そのとたん心に広がるのは後悔の嵐だ。彼は心の中で「ああ、言った。言ってしまった」と頭を抱える。選択肢のない選択だったが、選んでしまったのは仕方がない。一茶はさらに涙が流れるのを感じた。
「なんだと、貴様…」
 しかし、こっちの事情など相手は知ったことではない。年配の刑事は一茶の一言に怒りを表す。その表情はキレる寸前だ。別にそこまで怒らなくてもと思う人もいるだろうが、彼らは夜勤明け。要するに寝不足で気が立っているのである。そして、彼は怒りの赴くままに一茶を銅像から引きずりおろそうとするものの、それはすんでの所で止められた。「まあまあ、先輩。ここは僕に任してください」と若手の刑事がとめたからである。彼の方はまだ冷静なようだ。
 眠そうな顔に精一杯の笑顔を浮かべた彼、村田警部補は一茶に語りかけ始める。
「君、名前は?」
「私の名は聖なる瞳の観測者」
「…君はなんでそんなところに立っているのかな」
「それは、我々の存在を日本に知らしめるためである」
 揚々のない声で一茶は答える。マニュアルを思いだして口に出しているだけだから当たり前だ。しかし、村田警部補は酔狂にも付き合ってくれるみたいだ。「我々とは?」とちゃんと聞き返してくれるあたり、付き合いはよい人間なのだろう。だが、その何かイタイものを見る目でこちらを見るのはやめてほしい。
分かっていても傷つくものは傷つくのだ。そんなナイーブな心を隠しつつ、「我々とはエデンの戦士のこと」とちゃんと台詞を続けるあたり、一茶は偉いと思う。
「それで…
 君達の目的は」
 だが、なんとか元気よく話そうとする一茶に対し、村田警部補の声にだんだん疲れが見えてくるのは気のせいだろうか。心なしかだんだん背が丸まってきて、肩が落ちている気がする。
 声に張りがなくなってくるあたり、間違いなく気のせいではないだろう。しかし、その様子に一茶は気づかず、いや、気づこうとせず今までで一番大きな声で答えた。
「それは日本征服!」と
 声が大きくなったのは、別に役にはまったわけではない。これでやっと終わったという喜びからだった。今回の彼の仕事は駅前でエデンの存在を世間に公表するのみ、つまり仕事は終わったのだ。苦節、奇異の目で見られること三十分。一茶はがんばった自分を褒めてやりたい気分だ。
 しかし、仕事が終わったとしても帰れるわけではない。なぜもなにも目の前には現役の刑事がいるわけなのだから。
 さて、どうやってこの場を切りぬけるか。部長から渡された転移装置を使うにしても、いろいろ使用条件があるためにこの時点では使えない。
 幸い仮面のおかげで面は割れていない。このままダッシュで立ち去るという手もあるが…
「先輩、どうしましょう。あれ、完璧に薬できめてますよ」
「とりあえず、署に連行するしかないだろう」
 そこに聞こえてくるのは刑事二人の内緒話。内緒話といても声を潜めていないので内容はだだ漏れだ。どうやら一茶は薬物中毒者が妄想を語っていると判断されたらしい。彼らは一茶を署に連れて行く気が満々のようだ。
 これにはさすがに一茶も焦った。このままでは署に連行されてしまう。
そうなれば、彼の経歴に傷がつくことは間違いないだろう。一般社会に生きるものとしてそれだけはなんとしても避けたいところだ。何とかしなければと思い、一茶は必死で方法を模索する。答えは意外にあっさりと出た。そうだ、おとりを呼べばいいと。
「来い、一目!」
 一茶は空に向かって声を上げ、己の部下を呼ぶ。
 それと同時に中指と親指を合わせ、指をならそうとするが。
 スカッ
 見事に空ぶった。
手袋をつけたままだから当たり前だ。顔が恥ずかしさで高潮するのが分かる。だが、ここで顔を赤くしていてもしょうがないだろう。なにやらイタイ空気の中、いや、イタイ空気は前々だが、一茶は手袋をはずし、気を取り直してもう一度同じ行動を繰り返した。
「来い、一目」
 声が若干震えているのは許してほしい。気を取り直しても、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。一茶は中指と親指を合わせ、中指を思いっきり手のひらへ叩きつける。
 パチンッ
 若干すれた音だったが、今度はうまく鳴った。
 それと同時に現れるのは五体の一つ目の鬼。彼らは一茶を取り囲むようにして刑事達に対峙する。これに焦ったのは刑事達だ。いや、刑事達だけではなく、これには周りの通行人ですら目を剥いた。いきなり白昼の往来に伝説上の生き物が出れば、誰もが驚くのは当然だ。もちろんそれらは作り物ではなくどこをどう見ても本物っぽい。
 駅前の通りに小規模のパニックが起きた。
 よし、後は刑事達をこいつらに足止めしてもらうだけだと一茶は一目に命令を下そうとし…そこで一茶はピタリと止まった。
何のことはない。どう命令すれば良いか分からなかったからだ。
 俺が逃げるまで足止めをしろという命令は、はっきり言って情けない。しかし、奴らを攻撃しろと言って誤って刑事を殺したらまずいことこの上ないだろう。
 一目達の判断にまかせて適当に暴れさせるといっても無理だ。こいつらにはそんな器用さはない。なぜならこいつらは、魔術で作られたただの人形だからだ。
 紡曰く「厳密に生きているわけではないので独自で細かい判断ができるはずがない」とのこと。ようするにプログラムどおりに動くコンピュータと同じということだ。
 苦悩の末一茶が下した命令は「大怪我しないくらいあの二人を痛めつけろ」というものだった。刑事の二人には申し訳ないが、一目達が命令通りに動けば、かすり傷くらいですむはずだ。
ごめんなさいと心の中では思うものの、命令を取り消す気はさらさらない。誰だって自分がかわいいのだ。
これでよし。一茶は心の中で呟き、無理やり自分を納得させるとさっさと逃走を開始することにした。まずは銅像から飛び降りるところからだ。登るときはそうとは思わなかったのだがその背に立ってみると、銅像はなかなかに高い。もともと高いところが余り得意ではない一茶は下を見て躊躇するものの、このまま地面を睨みつけるばかりではどうにもならない。大きく深呼吸をして、とりあえずは心を落ち着かせることにするが、その姿は傍から見て滑稽だ。しかし、そんなことに一茶は気付かない。彼はタイミングを計るために、心の中で数を数えるのに必死だからだ。
一、二、三、今!
心の中の掛け声と共に彼は腕を振り上げ、一茶は背筋と膝を伸ばす。それは誰が見ても跳ぶ姿勢。後はつま先が銅像の背を蹴れば、その行為は完成するだろう。しかし、そこまでの動作をしながらも、彼の足の裏は銅像から離れなかった。
別に臆したわけではない。跳ぶ気は確かに十分あった。ただ、突如にしてめまいに襲われたために、動作を中断せざるをえなかったのだ。現実が遠い。音は消え失せ、見ている視界もひどくあいまいだ。一茶は平衡感覚を失いよろめく体を支えようと銅像の頭に手をつくが、手のひらに冷たい銅像の硬い感触を感じることはなかった。未来視の兆候である。
白く塗りつぶされた視界に浮かび上がってくるのは、これから起こるであろう未来の映像。
見ている視点は違うようだが、そこは現実と変わらない駅前のようだ。映像の焦点になっているのは銃を引き抜く年配の刑事の姿。そのことから考えられるのは、この映像がそう遠くない未来。遅くとも数分後の映像ではないかということだ。刑事は引き金に指をかけると躊躇なくそれを引く。撃ちだされる弾丸はどうやらそれは一目達を狙って発砲されたようだ。弾丸は空を切り進み、一体の一目へと突き進んでいく。詰められていく一目と弾丸との距離。しかし、それはゼロにはならない。ほんの些細な拳銃の角度のずれによって、弾丸はそれたのだ。弾丸は何事もなかったかの様に空中を飛び続ける。そして、その先にいるのは…
 はじける頭と飛び散る血飛沫。無情にも刑事の撃った弾丸は、尻餅をついている子供へとすいこまれていった。
 そこで映像は止まり、一茶の視界は再び現実へと戻る。仮面に隠れて分からないが一茶の顔は青い。彼は、銅像の上でバランスを崩しながらも刑事のほうへとあわてて視線を向けた。
 視界に映る現実の刑事はまだ銃を抜いてはいない。これならまだ間に合うはずである。
 一茶は仮面の能力を駆使して子供の姿を探した。頭の中に叩き込まれる情報の中、一茶は必死に子供の姿を探す。急がないと子供の命が危うい。未来視で得た映像の背景と実際の背景を照らし合わせ、場所を絞り込みこんでいく。
 見つけた。幸いにも子供はすぐ近くにいる。
 あの子供を守らなければと一茶は飛び出す。それと同時だった。一茶の目に未来視と同じ、銃を構えた刑事の姿が見えたのは。
「間に合え!」
 叫び声と共に、子供と刑事の間へと一茶は飛び出し両の手を広げる。耳に聞こえるのは拳銃が弾丸を撃ち出す乾いた音。それとほぼ同時に感じるのは自分の胸に何かが当たった感覚だった。
 一瞬パニックになって、一茶は慌てて自分の胸を抑える。痛みはない。恐る恐る自分の胸を見れば、そこに張り付いているはつぶれた鉛の弾だ。おそらく部長の用意した衣装の能力だろう。ホロリと潰れた弾丸が落ちたあとには、傷一つない黒い生地が平然と広がっている。弾丸を貫通させないのもさることながら、その衝撃すら軽減するとはいったいどんな材質なのか。おそらく魔術的付加があるのだろう。おかげで一茶はまったくの無傷である。わが身の無事に感動を覚えたが、一茶はすぐに子供のことが気になり、そちらを見やる。よかった、子供も無事のようだ。そこには、呆然とした姿で地ベタに座っている子供の姿が見えた。一茶は「大丈夫かい?」と声を駆けたい衝動にかられたが、今はそんなことをしている暇がないことに彼はすぐに気付いた。
一目達が相手をしているが、刑事がいるのには変わりないのだ。騒ぎを聞きつけた他の警官が来るのも時間の問題であろう。一茶はすぐに逃走を開始する。
 今は逃げなければ。
 彼は一目達をそこに残し、全速力でその場を離れた。

「はぁはぁはぁ…」
 全速力で逃げてきた一茶は部室に入ったとたん膝をついた。あの後、あらかじめ出されていた部長の指示のもと何度かの転移を繰り返して、ここまでたどり着いたのだが、その逃走中、常に走り続けたために、もう体力的に限界がきているのだ。
「大丈夫か?」
 掛けられた声に顔を上げれば見えるのは工藤の姿。
セルロイドの人形の方ではなく、ターミ○ーターの方だ。
「ほ、ほかの部員は?」
「まだ帰ってきてない。取りあえず座れ」
 工藤の手を借り一茶は起き上がると取りあえず自分の席につく。椅子にだらしなくもたれ、無理をして動かした体を休ませようとするが、そこでふと、一茶は向かい側の席には本物そっくりの女の子の人形が座っていることに気がついた。
 人形は一茶の方をじっと見つめている。その視線は当然ながら外れることは無い。
 無表情な顔に見つめられて、一茶はなにやら居心地が悪くなる。
「気持ち悪いかもしれんが、他に置く場所がないからな」
 確かに床に転がしておくのも気が引けるだろうが、せめて人形の目を瞑らしてほしいというのはわがままであろうか? そうは思うものの、相手は二個上の先輩だ。一茶の性格からしてそう易々と言えるものではない。
 一茶がそんなことに悩んでいると、工藤が再び口を開く。
「仮面、取らないのか?」
 工藤にそう言われて、一茶は自分が仮面をつけたままだということに気がついた。どうやら、そんなことにも気付かないほど憔悴していたらしい。
 右手でそれを掴むとはずし、机の上に置く。久方振りに外気にさらされた肌には、汗がびっしりと浮いていた。そして、そのまま息を整えるのに数分程度。久々の激しい運動に悲鳴を上げていた体はやっと落ち着いたようだ。運動不足ぎみの体にはいい刺激なのだったのだろうか?
 もっとも、こんな精神衛生上良くない運動は金輪際やりたくないのだが。
 一茶はぐったりとして、机にもたれかける。長机の冷たい感触が今は気持ちがいい。
「飲め」
 そこに聞こえてくるのは工藤の声。
 ぶっきらぼうな声に顔を上げれば、そこにいるのは紙コップを持った工藤の姿だ。 一茶は彼から紙コップを受け取ると、それを一気に飲み干した。お茶が気管支に入りかけ、せきこんだのはお約束だ。
「かなりばててる様だが、どうだったんだ」
 疲れきっている一茶の姿に工藤は疑問を投げかける。一茶の焦燥ぶりに心配になったのだろう。それほどまでに一茶は疲れきっていたのだから。もちろんそこには精神的なものも含まれている。しかし、一茶は工藤の気持ちを汲み取って「銅像の上で高笑いを上げていたら、不審者として警察に追われましたよ」と軽いノリで笑い話風に言おうとするものの、その笑顔や言葉はばっちりと引きつっていた。だが、それでもつとめて明るく振る舞う姿は正直痛々しい。「そっちも大変だな」という工藤の言葉に対し「ええ、二度とこんなことは御免ですよ」と答える一茶の言葉には万感の意をこめていた。
一茶はそんな忌々しい記憶を追いやろうと「工藤さんのほうはどうでしたか」と逆に聞き返すが、その瞬間、工藤は顔を不機嫌そうにしかめた。嫌なことでも思い出したのだろう。
「こっちはサラリーマン風の変態に絡まれた。
 嬢ちゃんの小遣い欲しくないかとか言いながら」
 確かに、あんな格好をした少女が歓楽街に行けばそうなるだろうなと一茶は思った。
 何を思ったのか、部長が工藤に出撃を命令した場所はそこだったのである。
「おかげでファンシーが役に立ったぞ」と言う工藤の声はひどくつかれたものであった。
 警察の相手をするのにも神経をすり減らすだろうが、変態の相手をするのも気分を害することが多いのだろう。
二人は同時にため息をつく。ため息をつくと幸せが逃げていくと言うが違う。幸せが逃げたからこそ、人はため息をつくのだ。
 部室の空気は暗い。もともと工藤は口べたなのか、あまり話そうとする人間ではないし、一茶は一茶で警察に追われた今さっきではそんな気分になれないだろう。もっとも、暗い照明と石造りの壁がそれに拍車をかけているような気がしてならないが…
 しかし、そんな時間もほんの一時、暗い雰囲気を払拭するように「ただいま〜」と部室に陽気な声が響く。目をそこに向ければ、入り口に立っていたのは鈴穂。格好は先程まで『部活動』をしていたために例の青いドレスに青いベールといった格好だ。ただし、黒かったはずの髪はなぜか水色に染まっている。きっとそれはドレスの能力なのだろう。
ともかく、部室へと戻ってきた鈴穂は自分の席へと歩きだす。しかし、その足取りはどこか怪しい。本人はまっすぐ歩いているつもりの様だが、若干左右にゆれているのだ。
 そんな彼女に対し「鈴穂さん、どうでした?」と一茶は聞くのだが、その瞬間ベールの奥で見えないはずの表情が引きつるのを、彼らは感じとらずにはいられなかった。よっぽどまずいことがあったらしい。事実彼女の口から語られるのは「海上保安庁に発砲されたわ」という物騒な言葉だ。皆を安心させようとしてなのか、すぐに気を取り直し、軽いノリで答えてはいたが、言葉が言葉なだけに安心できそうにはない。一茶は思わず聞き返しそうになるが、あと少しというところで言葉を飲み込んだ。せっかくの配慮を水に返すことをしては悪いと思ったからだ。もっとも、次に現れる人物に対してはどんなに配慮されようとも、聞き返さずにはいられなかったが。
「やあ、ただいま!」
 その五分後。最後に入ってくるのは人狼姿の大牙だった。
 その体毛はいつもの茶色ではなく銀色に変化している。そこまではよしとしよう。どうせ部長の衣装の力だろうから。しかし、その銀色の体毛に所々にドス黒い赤いものが張り付いてるのはなぜだろうか。
「大牙さん…
 それ…」
「ああ、猟師の団体さんに出くわしてな、撃たれた」
 一茶はその言葉に絶句するが、大牙はいたって平気そうだ。しかし、その爽やかさが血糊のはりついた体とあいまって逆に怖い。多分、境地的な空元気だろう。
「だ、大丈夫なんですか?」
「ああ、伊達に狼男はやってないからな」
 大牙はそう答えるものの、血の跡からはそうは見えない。傷は間違いなく直っているようだが、大牙だって生き物。痛覚は存在するはずなのだ。一茶はその疑問にとらわれてしまう。
 すなわち「痛くないですか」と。
 そして、その言葉を言った瞬間、一茶はピシリという音を聞いたそうな気がした。気がしただけであって、本当はそんなものは聞いていない。だが、なぜそんな音を聞いた気がしたのかといえば、亀裂が入ったのを見たからだ。大牙の笑顔に。
「はっはっは、そんなもん、痛いに決まっているよ…」
 どうやら、大牙は相当のやせ我慢をしていたらしい。陽気な声は一転、その声はどんどん弱くなっていき、そのときの痛みを思い出してか彼の目じりには涙がうかんでいた。最後の「痛かったよ」に限って言えばもう、死にそうな声だ。大牙にいわせてもらえば、どんなに丈夫な体を持とうとも、痛いものは間違いなく痛いのだ。そして、弾丸で撃たれたとあれば、それは普通死ぬような傷。涙が出るのも無理はないといえる。
 痛ましい沈黙が部室をつつみ込む。それはもう通夜のような雰囲気だ。彼らの顔は一様に暗い。そこにあるのはこれからの生活に対する憂いである。
「とにかくだ。これ以上、紡に従っていたら命が足りないと思わないか?」
 その沈黙に耐えかねたのか、それとも年長者としての責任感からか、工藤がやがて口を開いた。その口調はこの状況を打開する意味もこめてかいつも以上に強い。
しかし、それに疑問で答えるのは鈴穂だ。彼女は「でも、どうやって対抗するんですか?」と変わらず暗い表情で工藤に聞き返し、それに続く大牙は紡の技能について確認し始める。
「魔術の腕は一級品。人形作りでも、家業の工藤さんより遥かに上だ。肉体戦でも人狼を遥かに上回り、水中ですら人魚より自由に動け、時に未来を予測したように行動を起こす」
 彼の口から語られるのは紡の非凡さ。乙木紡という人物を検証するごとに、状況が絶望的だという証拠を突きつけられている気がするのは果たして本当に気のせいだろうか。工藤の最初の覇気もどこへやら、反論することもできずについには口を噤んでしまった。
「…部長って一体何なんですか?」
一茶は誰もが思うであろう疑問を口にする。そこに含まれているのは純粋な疑問と、正体がはっきりしたならば、対処のしようがあるんじゃないのかという打算である。
その疑問に対して大牙は「それは難しい質問だな」と眉間に皺を寄せながら何とか答えようとするものの、一茶の求めているものは出そうにない。
「彼は、いうなればスーパーマンだ。文武両道、多種多芸。あの人ができないと答えた所を俺は見たことがない。匂いは人間のようなのだが、その実いろんなものが混じりすぎて分からない。 本人に何者かと聞いたことはあるんだが、私は私だとはぐらかされた」
「つまり、正体不明だと?」
 要するに大牙の言いたいことはそういうことだ。
 そう聞く一茶に「はっきり言えばそうよ」と鈴穂は答えて肩をすくませる。
有効な対抗策は見出せそうにもない。工藤は「いっそのこと逃げるか?」と提案するもののその選択肢が一番ありえないことを彼自身よく知っていた。そんなことをしたら最後、この国は本当に紡によって支配されかねない。
つまり彼らにできることと言えば…
「最大限の労力をつかって最低限の成果を得るように努力するしかないか」
 日本の平和のためとはいえ、工藤の出した結論に一同は疲れを隠しきれなかった。 

 警察庁の建物の一角。
 窓のない蛍光灯だけが照らす会議室の中に十人ほどの男達が机を囲んでいた。彼らこそが、日本の警察をまとめるものである。
「今日、皆に集まってもらったのはこの手紙についてだ」
 その中でもはじめに口を開いたのは、見事なほどに白髪に髪の染まった初老の男。眉間に皺が刻まれているせいで、いつでも不機嫌そうな顔に見えるその男性は右手に一枚の紙を掲げると厳格な言葉でそう言い放った。
「それは?」
初老の男性の言葉に疑問を放つのは別の男性。年齢は先程の男性と変わらないはずだが、いささか若く見えるのは、彼の髪がまだ黒々としているからだろう。
白髪の男性は彼の言葉を受けて簡潔に答えた。
「テロの予告状だ」と。
 その瞬間、会議室に走るのは緊張。 テロに対する懸念が国際的に高まっている昨今。その言葉の持つ意味は大きい。
会議に出席しているすべての者達は白髪の男性を険しい目で注視した。
「読み上げよう。
『我々エデンの戦士達は、日本の征服を目的とする秘密結社である。
  それに先だって下記の日時と場所で、我々の存在を世間に知らしめるものとする』
 おもな内容はこんなところだ」
 複数の瞳に促されるように白髪の男性は手紙の内容を出席者へと告げる。しかし、その中身は今時のヒーロー番組ですら取り上げられないようなベタなものだ。
 子供のいたずら。そう捉えるのが、妥当な線であろう。しかし…
「我々がここにいるということはそれだけではないんだろ」
 そう、こんな大層な会議を開いているのだ。それだけではありえない。
「順を追って話そう。手紙が届いたのは昨日の午後だ。担当の警官はそれを短なるいたずらと判断。放置したそうだが」
「起こったのか? テロが」
 別の男性が憂いの声を上げるが、白髪の老人はそれをやんわりと否定した。
「正確には起こってないとも言える。
 指定の場所には四人の人物が現れ、主張をしたそうだ」
「馬鹿らしい。それに何の問題がある」
 そう、それだけなら問題ない。両の腕に手錠をかけ、留置場で二、三日過ごしてもらえば何の問題もない。
 だが、
「それが大ありなのだよ。なんせそこに現れた四人のうち二人は間違いなく人間ではなかったのだから。さらに各々魔術生物と思わしき物を途中召喚したらしいからな」
 それは、その者たちが現代社会にふさわしい者達である場合に限ってだ。
その言葉を聞いたとき、会議室は騒然となった。
「馬鹿な! 何を考えている!」
「秘匿の義務を忘れたか!」
「最近、悪魔の発生件数も増えているというのに!」
 会議室の男達の口から発せられるのは、その者達を非難する言葉。何処の世界にも暗黙の了解というものがある。魔術師にとって、魔術の秘匿は何よりも優先させるべきものであるし人間社会に溶け込んだ人外にとって、人として振舞うことは第一条件だ。ましてや、この国では秘密裏にそれらの神秘に対しても明確な法を定めている。男達のこの騒ぎようも致し方が無いといえる。だが、このままでは会議が進まないことも確かなことだ。
「静まれ!」
 業を煮やしたのか出席者のうちで一番ガタイのいい男が活を入れる。その声量に驚いてか、会議室は一応の静けさを取り戻すが、出席者の多くは未だにそわそわとしていた。
「我々が、そんなことでどうする。今はこれからどうするべきかを話し合うべきだろう」
 たしなめるように続く言葉。ガタイのいい男はそう述べると会議室の面々を見渡した。
 その視線に促されるように、彼らは気分を落ち着かせる。会議には最初と同じような厳粛な空気が取り戻された。それを確認するとガタイのいい男は白髪の男性へと視線を合わせ、口を開く。
「それで、もみ消しのほうは」
「それは、もちろん」
 抜かりは無いと白髪の男性は答える。
「ならば、問題はエデンの戦士をどうするかだな」
 ガタイのいい男はそう言うものの、選択肢はあまり多くない。というよりも一つしかないだろう。
「陰陽課を動かすしかあるまいて」
 髪の毛の後退した男が確認するように呟いた。彼は、つるつるの頭部をさすりながら「しかし、相手の規模が分からんことにはな」と続ける。
「そのことだが、どうやら少しまずい」
 それに対する白髪の男性の答えはあまり色のよいものではない。彼は、会議室の隅に立っている男を呼び寄せると指示をだす。程なくして消えるのは会議室の蛍光灯。白髪の男性の後ろに現れるのは真っ白スクリーン。
 そこに映るのは一つ目の鬼の姿。
 風景から察するに街中のようだ。
「居合わせたカメラマンが取ったものだ。
 聖なる瞳の観測者と名乗る四人のうち一人が召喚したものらしい。
専門家に見てもらったところによると、かなりの腕のある魔術師が作ったと見うけられるそうだ。最低でも世界で十指に入るくらいのな。
 現場で残留魔力の鑑定をしたところ、一体当たり機動隊一小隊と同等の力を持っていると言われた。確認されただけでこれと同形状の物が五体あり、四人が使役する魔術生物を同じ魔術師が作ったとなると、最低でも彼らは二中隊クラスの戦力を保有していることなる」
 白髪の老人が、一つ目の鬼に対する情報を述べる。本人は淡々とした口調で述べようとしているみたいだが、その表情からは隠しきれない苦悩が感じられた。
しかし、その苦悩を感じ取れないのか、口鬚の男が「どうするのだ?」と無責任にも何も考えていない意見を述べる。それに苛立ちを覚えるのは、ガタイのいい男性だ。彼はぶっきらぼうに「民間の魔術師にも協力を仰ぐしかあるまい」と答えた。もっとも、その意見は有効ではあるものの、警察の威信を傷つけるものでもある。
「不本意だ。他に方法はないのか?」
 案の定、別の所から不満の声が上がる。だからと言って、その声を発した者も本気で反対しているわけではない。表の情勢もめまぐるしいが、裏の情勢もめまぐるしい昨今、陰陽課だけでこの事態を解決できるとは思っていないのだ。
「この際見栄を張ってはいられまい」と述べるのは、髪の毛の後退した男性。
 しかし、問題なのはそれを誰に委託するかであろう。彼は意見を求めてと白髪の男性へ目をやった。
「君達は西山のことを覚えているか?」
 それに対する答えとして、白髪の男性は待ち受けていたかのように答えた。
「彼か、彼ならば人格にも問題はあるまい」
 髪の毛の後退した男性は納得したように頷く。他の面々を見渡しても異論はないようだ。
 だが「要請は?」という言葉に対する答えは、望んでいるものとは違っていた。聞けば断られたということだ。白髪の男性は述べる。「別の魔術師を紹介された」と。
「ほう、誰だ?」
 その言葉に飛びつくのは、口髭の男性。彼は興味を引かれたかのように白髪の男性に聞き返した。
「名前は沢井遥という」
「聞かない名前だな」
 西山というのは、日本でもトップクラスの魔術師だ。その男が代理として推薦するような人物。それなりに、有名であってもいいはずなのだが、聞いたことがない。外法の類なら手に負えないことになるが…
「西山の弟子のようだ。彼曰く、性格は温厚。才能は自分以上だとか」
 その不安を打ち消すように、白髪の男性は答える。その言葉に周りの男達は頼もしいとそれぞれ安堵の声を上げた。その中には、弟子が失敗した場合には西山を引っ張り出せるという打算を含んでいるものもいる。
「それとだ…
 今回現場に居合わせた警官二人を対策員として引き込みたい」
 白髪の男性は、出席者のあらかたの了承を得ると、今度はそんな提案をする。
 外部の力を借りるのは致し方ないとしても、警察自体でも対処できるように戦力の増強をしないわけにもいかないということだ。
それに対して「優秀なのか?」と聞き返すのはガタイのいい男性。その疑問に白髪の男性は「どちらでもない」という答えをかえした。
「警官としては並みだな。だが、片方は剣道で学生時代インターハイに出たことがあり、片方は射撃訓練で跳びぬけた成績を収めている」
「それなりの装備をさせれば十分対抗できると言うわけか。構わぬと思うが」
「他の皆もよろしいかな。
 では、以上で会議を終了したいとおもう」
 白髪の男性の言葉から始まった会議は白髪の男性の言葉によってしめくられた。

「先輩。気を取りなおしましょうよ。
 始末書だけですんでよかったじゃないですか」
「俺が気にしてるのは、そのことじゃねえ」
 春日署の署内を二人の男性が歩く。
 大木と村田だ。大木の方は何やら沈んでいて、それを村田が慰めている。
「あ、もしかして、もう少しで子供にあたってしまいそうになったことですか?」
「ああ…
 あの仮面野郎がいなかったら間違いなくあの子は死んでいた」
「…あの仮面の奴ってほんと何でしょうね」
「知らねぇよ。
 ただ…」
「ただ?」
「第一印象のようないっちまった奴ではないだろう」
「ええ、それにあの鬼何だったんでしょうね。
 結局すぐ消えちゃいましたし」
「さあな、そんなことより俺はこれから惰眠をむさぼるんだ」
 そう言ったところで大木は大きくあくびをした。
 あの後、大木と村田は事件の報告をしにむかったのでもちろん寝てはいない。
 眠気は最高潮に来ていた。その時だ。
「ああ、大木。ここに居たか」
 そんな言葉が聞こえてきたのは。
 せっかく家に帰って眠れると思った所で呼びとめられたため、大木は不機嫌になるのを感じながらふり返った。そこには同期で刑事課に配属された同僚の警官がいた。
「松浦、なんか俺に恨みでもあるのか?」
「おいおい、何でそんなに不機嫌なんだよ」
「しいて言えばお前のせいだ」
「村田、俺何かやったか?」
 助けを求め村田に聞くと返ってきたのは「間が悪かったんです」という答えだった。それに対して彼は「なんだよそれ」と不満の声をあげる。
「そんなことはどうでもいい、それで何のようだ?」
 大木の言葉にはつまらん答えだったら伸すぞと暗に込められている。
「あ、ああ、さっき課長から受け取った言葉だが、至急署長室に来てくれとさ」
「署長が…」
 それを聞いて、大木は考え込んだ。
 一体署長からこんな一警察官になんのようだろうか?
 まさか、発砲したことで署長自ら注意を促しに?  目をつけられたか?
 そうとなれば厄介なこととなる。別に大木自身は出世に興味がない。
 しかしだ。職場で気持ち良く仕事をしたいというのは人間として当然だ。
 一番上の人間に目をつけられてメリットなど一つもないだろう。
 もし、その件で自分が呼ばれたのならば、注意だけして俺のことはさっさと忘れてほしいというのが心情だ。
 横を見れば後輩の村田が「先輩がんばってください」といった目でこちらを見ている。
 しかし、それは次の言葉で見事に崩れることとなった。
 つまりは、
「ああ、村田。
 お前も一緒に来いってさ」
という言葉だ。
「え、自分もですか!」
「村田。俺はお前を信じてたぞ。
 やっぱり、コンビは責任を等分しなくちゃな」
 村田が驚き顔色が悪くなるのに対して、大木はひどくうれしそうだ。
 そこには、後輩に対する気遣いなど何処にもない。
「村田。堕ちるときは一緒だ。
 フォローを頼むぞ」
「はぁ、分かりましたよ」
 村田の不満そうな声を聞きながら大木は署長室へと向かった。
 トントンとドアをノックをして「失礼します」という言葉とともに署長室へと入る。
 仏帳面の署長の顔を思い浮かべて部屋に入ったのだが、大木が目にしたのは意外なことに穏やかな表情の署長と、二人の男性の姿であった。
「良く来てくれた。
 まぁ、掛けてくれたまえ」
 署長に勧められるままに大木と村田は二人の男性と向かいあう形で応接用のソファーに腰を掛ける。 
「まずは紹介をしよう。こちらは林巡査部長と安藤巡査。本庁より来られた」
「本庁の方ですか?」
「正確には、違うがね」
 訳も分からず大木は聞き返すと林と紹介された男はそう言いなおすとさらに続けた。
「私達の立場は説明がしにくくてね。ある意味SATのようなものと考えてくれればいい。
 とある特別な任務にかかわる特殊部隊だ」
「で、そのSATのような方達が何用で?」
「君達二人を引き抜きに来た。突然だが、君達は今朝会った存在をどう思うかね?」
 そう聞かれて大木は黙りこむ。何と答えてよいのか分からなかったからだ。
 村田も同様でただ黙っている。
「まぁ、答えれないのも無理がないと思う。こんなことを人に言ったとしても大抵は信じてもらえないからね。
 私達はそういうモノを相手にするのが仕事だ。この世には御伽話にあるようなものが現実に存在してね。政府としてはそれに対しても法を敷かなければならない」
 村田と大木は静かに林の話を聞く。
 手振りまで加えて話すその姿はまるで演説のようでもあった。
「約百五十年前まで、この国では陰陽術などと言う神秘は当然のモノとして存在していた。
 それが変わったのは明治維新を迎えてからだ。
 一八五八年。西洋諸国と国交を結ぶことにあたって陰陽術などの神秘を秘匿することを決定した。理由はいろいろあるが、主な理由としては当時の先進国が皆キリスト教徒であったことが原因だろう。彼らは知っての通り、聖人でもないものが奇跡を起こすことが嫌いでね。西洋諸国で魔術が早々と秘匿されたのはそのせいだと私は考える。
 ともかく、当時弱小国であった日本は外国との衝突を恐れ、それらは公で使用されることが禁止されたのだ。しかし…」
「妖怪や魔術がなくなることはない。そこであんたらが現在それらを管理していると?」
「その通りだ。理解が早くて助かる」
 大木の言葉に林はうれしそうにそう言った。それはさながら、できの悪い教え子の成長を喜ぶ教師のようだ。
「それは、分かったが、なぜ俺達を?」
「なに、君達の資料を読ませてもらったが、なかなか優秀そうだったからね、大木警部の腕前は中々のものとして聞いているし、村田警部補は射撃訓練ですばらしい成績を収めている。
 そして、なによりだ」
 林は言葉を一旦切り、言いなおす。
「なにより、君達には理解できないものにでも立ち向かって行く勇気がある。あの時、大木警部は拳銃を抜き、撃ったね。目撃者の話では躊躇をみせなかったとも聞いている。
 なぜだね…」
 しかし、口調は一新されたといってもよかった。そう話す林の言葉は先程までの演説めいたものではなくなっていた。
「さあ、とっさだったから、覚えていませんよ。ただ…」
「ただ?」
「俺は警官なんだから市民を守らなくてはとは頭のすみをよぎったかもしれません。
 もっとも、守ろうとした市民の頭を撃ちぬきそうになってては笑い話にもなりませんが」
 大木はそう答えると頭をかいた。少し、自分の言葉に照れているのかもしれない。
「村田警部補。君も、必死でその中に留まり、立ち向かっていたと聞いている。
 なぜだね?」
「僕は…」
 林に聞かれて、村田は少し考える。あの時、自分はどうしてあそこに留まったのだろうと。
 はっきり言おう。
怖かった。
 あの時、一瞬はあの化け物達は何かの冗談かと思った。しかし、次の瞬間には分かっていた。
あれが幻ではないと、あれが作りモノではないと、そしてあれが、人のかなうものではないと。 あの化け物達の持っている威圧が、存在感がそれをすべて自分にそう知らしめていた。
あんなものに拳銃が効くとは思えない、ライフルでも心もとなく、ロケットランチャーを直撃させれば何とかなるかもしれないが、そんなものあの場所にはありはしなかった。
 だが…
「大木さんが残っていたからでしょうか。
 思ったんですよ。ここで逃げ出してこの人が死んでしまったら後悔するんだと」
 村田が気づいた時、口にしていた言葉はそんなものだった。
 それを聞き、林は満足そうに肯く。そこにあるのは作り物の笑顔でなく、心底からくる喜びの笑顔。まるで少年のような笑顔が大木にはひどくまぶしく見えた。
「そうか…
 大木君、これがさっきの答えだ。
 正義と言う言葉は曖昧で、ひどく頼りないものだ。しかし、私は誰かを守ろうとする気持ちだけは嘘じゃないと思う。そして、この仕事は誰かを守るという気持ちこそが一番に必要なものだ。決して世間に出ることもなく、誰も私達を知らず、そして誰からも感謝されない。
 そんな仕事だが、私達と一緒に、仕事をしてみないか」
 その言葉に、自然と大木は「ええ」と答えていた。
 初め林とあったとき、彼はなんと胡散くさい奴だろうと思った。彼は政治家が嫌いだ。口先では色のいいことをいい、平気で人を裏切るのだから。それを髣髴とさせる林のことは気に入らなかった。
 しかし、今の林の言葉を聞いて変わった。
 これでも刑事になって十数年。それなりに人を見る目はあるし、人の偽言もすぐに分かる。
 だから分かった。林の言葉がすべて本気だということを。
 日陰の仕事、多いに結構。やってやろうじゃないか。
「村田。お前はどうする?」
「大木さん一人じゃ心配ですしね。それに僕らコンビじゃないですか」
 大木の言葉に村田はそう答えた。
 数日後、大木と村田は陰陽課に配属されることとなる。

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