第一章 ドラゴン野村登場編

 ある昼下がりの駅前通りを彼女は歩いていた。彼女の名前は工藤恵子。大学生になる息子を持つ一児の母親である。
 突然だが、彼女は自分が世界で一番幸せな母親であること自負していた。彼女の息子である正一は反抗期とは無縁に育ち、休日になれば進んで家事を手伝ってくれる。つい先日など、彼女の誕生日にブランドものの質のいいハンカチをプレゼントしてくれたのだ。
 自分にはもったいないほどに良く出来た息子だった。だから時々恐ろしくなる。この幸せはある日突然無くなってしまうのではないかと。その恐怖の原因は十二年前の悪魔との約束。十年後に息子を連れて行くといったあのモノはついぞ現れなかった。あの悪魔は『契約』を完了する前に消えてしまったのだろうか? それは分からない。死体を確認したわけではない。さらに言うなら、悪魔に死体など残らないだろう。彼女に出来るのは日々あの悪魔が消滅したことを願うだけだ。
 さて、今夜の食事は何にしようか。最近彼女の息子は疲れて帰ってくることが多い。サークル活動が忙しいそうだ。どのような活動かは聞いていないが、あの息子のすることだ。そう危険なことはしていないだろう。サークルの話を話題に出すたび、困ったような、それでいて誇らしげな息子の顔を浮かべながら、今夜は元気の出るようにお肉たっぷりのカレーにしようと彼女は決める。
 さて、お肉屋さんはあちらだったか。頭の中の地図を引き出し、そちらに足を向けるが、その瞬間、彼女の歩みは凍りついた。
 人込みの向こう側。そこには思い出したくない顔があった。黒い衣装に身を包み、青白い顔をした男。人とも思えぬ気配を放つソレはゆっくりとした歩みで彼女に近づいてくる。流れるように動く体。モーゼが海を割ったように人込みに空白が出来た。だが、恐ろしいことに誰もそれをおかしいとは感じていない。何者にも侵されぬその歩みはまるで王者のよう。その姿に体が震える。
 男が何食わぬ顔で彼女の横を通り抜ける。
「五月の二十日。そちらの家に窺う」
 去り際に男は一言だけ残していった。
 五月二十日。その日は彼女の息子の誕生日だった。


「ふははははは!」
 夜の街に笑い声が響き渡る。張りのある若い男の声であったが、それは何処となくくぐもっていた。しかし、それは仕方の無いこと。なぜならその声の主である小林一茶はそのとき仮面をつけていたのだから。一つ目の書かれた仮面にビジネススーツを着たその姿。彼が即通報されるような格好をしているには訳がある。実は何を隠そう、彼は最近ニュースで話題になったテロ組織、エデンの幹部であるのだから。
 エデンは自他共に認める悪の組織である。主な活動内容は魔術などの超常的力を用いた街での騒乱だ。異能力は隠されるべき、それはこの世界の常識。その常識に真っ向から立ち向かうこの組織を政府は当然黙って見ているだけではない。警察機構の一つ、異能力者を取り締まる陰陽課に彼らを『処理』させようと差し向けている。それらに捕まれば一茶達には暗い未来しか残されていないだろう。
 しかし、彼らは活動を止めない。それは秘密結社が掲げる野望、日本征服を果たすため……というわけではない。日本征服なんていうものはただの飾りだ。彼らの目標は一つ、悪魔発生の抑制だ。
 近年、世界的に悪魔の発生件数が増加している。悪魔の材料が害意などという負の感情であることから、人の精神が病んでいるのではないかといわれているが、本当の所は分かっていない。しかし、悪魔による被害がある以上、それを見過ごす訳にはいかないだろう。陰陽課は尽力しているが、悪魔による被害がなくならないのが現状だ。彼らはそれらを何とかしようと、詳しい仕組みは省くが、悪魔の材料である負の感情をその身に集めているのだ。
 故に一茶はこの活動を止めようとしない。いや、代われるものなら代わって欲しいという気持ちを否定することは出来ないが。彼の姿を見て、あからさまに離れていく人たちを見ると特に。
 さて、そろそろといったところか。何がというと、陰陽課が現れるタイミングである。その情報網がどうなっているかは知らないが、彼らは一茶達がこのように街に姿を現すと少なくとも一分以内に現場に到着している。恐るべき速さであるが、ひょっとしたら予知能力者でもいるのではなかろうか? 実にありえそうなことで嫌なのだが、待ち伏せなどというものが起こっていない以上、そんなに気にすることもないのだろう。
「待てい」
 やがて、一茶の笑い声を否定する声が夜空に響き渡る。
 とうとうきたか。
一茶は覚悟を決めて声のほうへ振り向くことにする。この瞬間は何時になろうとも緊張する。相手によっては無事に逃げ切れるかわからないのだ。どうか『当たり』を引きませんようにと願いながら振り返るが……
「へっ?」
 一茶の動きは一瞬と待った。何故と聞かれれば、相手が余りにも珍妙な格好をしていたためだ。それはもう、一茶と同レベルの。この自分と同等変な格好ということを確認するのは、なにやら悲しいものがあるが、事実なのだから仕方ない。
 あらためて、相手はとてつもなく変な格好をしていた。簡単に言えば、タイガーマスクのドラゴンバージョンと言ったところか? レスラーのようなぴっちりとしたパンツ、裸の上半身の上には真っ赤なマントを羽織っている。決め手は顔を覆う覆面。竜を模したであろう立体的な覆面は他の衣装に対して実に作りこまれていて、アンバランスな印象を与える。逆に考えてみれば、他のパーツがチープなだけなのだろうが。
 あれは陰陽課なのだろうか? 一茶は考える。いままでの奴とは一線を引くその格好はいつか出会った魔法少女や正義の味方のそれと同じノリだった。但し、こちらはデザインの原型のないオリジナルである。彼は片手を空に向け、もう片方を地面に向けた奇怪なポーズをとると咆哮を上げた。
「我が名はドラゴン野村。正義の戦士、ドラゴン野村だ」
 その目は語っている。俺はやりきったぞというような達成感を。恥ずかしさなど微塵も見せず、堂々としたその名乗りは変を通り越して痛い。
「なんなんだ、あんた……」
 故に、一茶はつい聞いてしまった。知らないものが現れたとき、それが何かを確かめようとするのは、恐らく当然の行為だと思う。それに対し、ドラゴン野村(仮)は大げさなポーズをとりながら一茶を指すと言った。
「お前に名乗る名など無い!」
 いや、さっき名乗っただろう。ここに誰がいたとしてもそう心の中で思っただろう。当然一茶も思った。そして、突っ込むべきかを悩む。痛い、痛すぎる。痛すぎてどうしていいのか分からない。ひょっとしたら、自分達も陰陽課の人間からそんな風に思われているのではないだろうか。ふとそんな考えが頭の中に浮かび愕然とした。
「さあ、私が相手だ。この街でのこれ以上の狼藉を許さん」
 ドラゴン野村(仮)はそう言って走り出した。そのスピードは一般人と比べると恐ろしく速い。もともとそんなに無かった二人の距離はすぐさま縮まる。そしてドラゴン野村(仮)は拳を振り上げ……
 そのまま横から飛んできた閃光によって吹き飛ばされた。
「こちらα−2。エデンの戦士と思わしき一人を撃墜した。
 しかし、相手の一人はいまだ健在」
 閃光の飛んできた方を見れば、黒服の見慣れた陰陽課の人間。それを目にした瞬間、一茶の胸の中に何かが広がったような気がした。これを簡単に言うならば、おそらく安心と言うものなのだろう。一茶は初めて陰陽課の存在にありがたさを覚えた。
「すぐに取り囲め!」
 だからといって、つかまってやるという選択肢は無く。
「こい、一目」
 配下である一つ目の鬼を呼び出すと、それらを陰陽課の人間にあて、そこから一目散に逃げ出した。

「ただいま、戻りました」
 それから数十分後。一茶はそう声をあげ室内に入ってきた。ここは某大学の敷地内、そこから位相が若干ずれた位置にあるエデンの戦士達の本拠地、サークルWOCの部室である。ちなみにWOCとは何の略かは誰も知らない。知っているのはこの部活の部長である乙木紡くらいなものだろう。
「あら、おかえりなさい」
 それに答えるのは紅いドレスに身を包んだ少女。WOCの部員であり、エデンの幹部である紅いドレスのエレイシアだ。思わず目の引かれる程美しいその少女は信じられないことに実は人形である。紡特性のそのボディを操るものの名は工藤。性別的には男でありWOCの副部長、そして乙木紡ともっとも付き合いの長い人間である。あと工藤について特質すべきことは彼が魂のみの存在だということだろうか。実は彼、幼少の頃に病気で体を失っているのである。なんでも、それを悲しんだ親が彼の体を確保してエレイシアと同様に人間としか見えないような人形に移し変えたとか。
「工藤さん、早いですね」
「ええ、うちに回ってきたのは、そんなに強くない連中だったから」
 工藤は実に楽しそうな声で答える。その仕草は非常に幼く見える。外見上は非常にあっているが、中身はすでに二十歳を超えている男だと思うと正直気持ち悪いのだが、それは言わないでやって欲しい。なぜならこのボディ、中に入ると口調や仕草を強制的に変えさせられるのだから。普段の彼はもっと男らしいということを彼の名誉のために言っておく。
「でも、そっちもどうやら『当たり』は引かなかったようね」
「ええ、『当たり』は引かなかったんですが……」
「なんか、引っかかる言い方ね」
 一茶の頭に浮かぶのは先ほど出会った珍妙な姿の男だ。あれを一言で表すならどういえばいいのだろうか? 一瞬疑問に思うがすぐに答えは出た。
「……変態と出会いました」
「変態?」
 そう、あれを一言で言うにこれほど適した言葉は無いだろう。リングの上でなければ、あんな格好をした人間は変態以外の何物でもないだろう。だいたい、少し暖かくなってきたといえども、この時期にあんな上半身裸と言う格好をしているのはおかしい。
「そう、変態です。自分たちと同じくらいに変な格好をしていました」
「そ、それは確実に変態ね」
「ええ、いや、でも……」
 そこまで言って一茶はなにやら言いよどむ。頭にふとした疑問が浮かび上がったからだ。
「時に工藤さん。うちのサークルに野村なんて人間いませんよね」
「? ううん、いないと思うけど」
「ああ、良かった」
「どうしたの。一人で納得しちゃって」
「いや、ひょっとしたらあの人。部長に衣装をひょいと渡されたまだ見知らぬうちのメンバーだったのかもしれないと思ってしまいまして」
 そう一茶が言った瞬間、工藤の視線が泳いだ。それが現す心情は同様だ。
「ちょ、工藤さん。ひょっとしているんですか!?」
「ううん、いないと思うよ。思うけど、あいつのことだからひょっとしてそこ等辺を歩いている一般人にひょいと衣装を与えるくらいあるんじゃないかと思って」
 その言葉に一茶は絶句した。非常にありえそうだったからだ。確率的には五十パーセント程度といったところか。
「あはははははは」
「あはははははは」
 互いに乾いた笑いを上げる。いや、もう笑うしかないねという空気だ。この空気を割るには第三者が現れるしかないだろう。例えばそう、青いドレスを着た彼女のような。
「どうしたの? エルちゃんも一茶君もどうしたの笑い会って」
 二人に声を掛けるのは青いドレスを着た女性。その表情はヴェールをかぶっているために分からないが、なにやら興味深げであることが声から察すことが出来た。この女性の名前は海野鈴穂。海の涙という幹部名をもつWOCのメンバーである。その正体は太平洋出身の人魚だ。ファンタジーで美女の代名詞の一つである人魚だけあって、その素顔ははっとするほど美しい。
「ああ、鈴穂さんお帰りなさい」
「鈴穂お姉ちゃん。どうしてエルちゃんて呼ぶのよ」
 笑顔で迎える一茶に対して工藤は膨れ面だ。どうやら呼び方が気に入らないらしい。
「だって、その姿に工藤さんと呼ぶのは似合わないんだもの。
 それより、何の話をしていたの?」
「いや、変態の話を少々」
「変態?」
 一茶の言葉に鈴穂は首をかしげる。
「それは、他のメンバーの姿を見間違えたとか……」
「いや、それならよかったんですが、恐らく違うんじゃないかと」
「そう、春ももう終わったのにね」
「ええ、なんとも珍妙とした格好のおと……」
「タダいマ戻りマしタ!」
 一茶の台詞をさえぎるように現れたのは二メートルを超える銀色の甲冑だった。元気はつらつなメタリックボイスはどことなくシュールだ。プシューと空気の抜ける音がするとその胸部が開き、中からセーラー服姿の少女が現れる。小島恭子、それが彼女の名前である。彼女がWOCのメンバーとなったのは他の部員とは少し違った経緯を持つ。原因はひとえに彼女の好奇心といったところか。ある日、秘密結社エデンの活動を見た彼女は、転移中のメンバーの一人に抱きつきエデン本部もとい部室に潜入、そこから紡の脅迫という名の説得により目出度くないことに活動メンバーに加わったのだ。
「お帰り、恭子ちゃん。
 ということは、今日も『当たり』を引いたのは大牙かしら」
 無事に帰って来た恭子を見て、鈴穂はそう言う。『当たり』とは一茶達の間で呼ばれている陰陽課のあるグループのことである。そこだけ戦闘能力が違うことから彼らをそう呼び始めたのだが、実質的には外れだろう。なぜならそれに当たった者は……
「た、ただいま」
 彼のようにボロボロになるのだから。疲れきった声と供に現れたのは銀色の毛並みを持つ狼男。毛並みの良いはずのその体は、今はボロ雑巾のようだ。彼の名前は大牙=グリーンヒル。こちらは見ての通りの狼男である。
「ご愁傷様です。大牙さん」
 その姿を見て、一茶は両手を合わせた。
「大牙お兄ちゃん。元気出して」
 その姿を見て、工藤は方を叩いた。
「大牙、あなたの犠牲は無駄にしないわ」
 その姿を見て、鈴穂は目元にあるはずの無い涙を拭くふりをした。
「これも運命だと思って諦めてください」
 その姿を見て、恭子は笑った。
「これで、五回連続ですね」
「ああ、悲しいことにな。
 時に一茶、お前、予知能力で他のメンバーと一緒に俺を嵌めてないよね」
 五回連続。五人のメンバーで連続してそれに当たる確率は実に三千百二十五分の一だ。大牙の疑問ももっともだといえよう。一茶には実はある特殊能力がある。それは未来を予知できる能力だと言っても、
「忘れたんですか、大牙さん。自分の予知能力は任意に使えないんですよ」
 そう、一茶は自分の能力を自分でコントロールすることが出来ない。せいぜい、ふとしたきっかけに発動するくらいだ。紡の作った仮面により、多少ならコントロールすることできるが、それもせいぜい五秒先の未来くらいだ。それ以上は安全装置を外さなければならない。
「分かってはいるんだけど、こうも『当たり』を引くとな。
 しかも、今日その内の一人が、斬魔刀なんて持ち出してきたし」
「斬魔刀?」
 聞きなれないワードに一茶は聞き返す。
「ああ、陰陽課が所有する対悪魔用武器だ。対悪魔といっても魔力を持つものすべてに有効でな、配下の骨格獣がバシバシ斬られてた」
 もうやってらんないよと大牙はそのまま床に横たわる。
「重ね重ね、ご愁傷様です」
 一茶はそのままピクリとも動かない大牙に両手を合わせた。

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