プロローグ

 すべては遅すぎた。
 夫婦の前には幼子の体。二人の愛の結晶であるその男の子の心臓はすでに止まっている。つい先日まで笑顔で遊んでいたその子はもう永遠に動かない肉の塊に変わってしまったのだ。直接の原因はインフルエンザによる肺炎、だが、間接的な原因は二人にあったと言ってもよい。その事に耐え切れず母親は泣き崩れ、父親は血がにじみ出るまで拳を握り締めた。
 賢く、素直な自慢の息子だった。仕事に忙しく、かまってやれない事が多かったが、二人の事情を理解し、文句の一つも言いはしなかった。一昨日も、泊りがけで仕事に出る二人を「がんばって」と笑顔で送り出してくれた。
 年齢の割りに大人びていることが裏目に出たのだろう。どうして気付いてやれなかったのか。このよく出来た子供はその時、体調が悪いことを隠していたというのを。思い返してみれば、数日前から息子には元気がなく、堰も時折していた。それをただの風邪だと決め付けて、見過ごしていたのは二人だったのだ。仕事から帰って来た二人、愛する息子の顔を見るために急いで仕事を切り上げた彼らが見たのは居間で倒れている子供の姿だった。
 その光景を見たとき、二人は何が起きているのかさっぱり理解できなかった。しかし理解していくうちに、驚愕は恐怖に変わり、恐怖は絶望へと変化していった。
 息が無く、脈も途切れた最愛の息子。
 どうしようもない。それは分かっていた。
 死んだものは生き返らない。魔法を使ったとしても到底無理なことだ。そこに魂はなく、肉の塊しかないのだから。まだ、ここに魂があれば違っただろう。優れた魔術師であり、人形師である二人ならばその魂を保護し、別のカラダに移すことも可能だった。しかし、そこに二人の探すものは陰も形もなく、残滓すら見つからない。
 無理なことは分かっている。分かっているが……
 それでも願わずにはいられなかった。誰でもいいから息子を助けて欲しいと。
「その願い。叶えてみせようか?」
 ふいに絶望にあえぐ二人に声が掛けられた。涙に滲む目で振り返り見れば、そこには黒い人間ではない何かが立っている。その者が何かは分からない。感じた気配は悪魔。だが、それはありえないこと。悪魔とは人の害意が魔力に移り形となったいわゆる自然現象の一種だ。そこには意思など無く、このように話しかけてくることなどありえない。しかし、目の前の悪魔からはしっかりとした意思と知性が宿っていた。
 いや、そんなことはどうでもいい。この悪魔は今何を言った? もしそれが可能であるならば、この

悪魔が何者だったとしても構わなかった。
「ただし、条件がある」
 わき目も振らず、話にとびつく二人に悪魔は冷淡につげる。だが、どのような条件を出されたとしても二人には関係なかった。息子が生き返るのなら、彼らはすべてを捧げるつもりでさえいた。
「十年後、この子を迎えにこよう」
 高まった感情に冷や水を掛けられた気がした。悪魔が条件に出したもの。それは二人がもっとも取られたくないものだった。何を差し置いても叶えたい願いの条件に、何を差し置いても渡したくないものを悪魔は提示してきたのだから。。

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