「奥村さん。
 奥村さんのお兄さんって、あの健介さんですよね」
 そんな声が聞こえたのは、学際休み明けの火曜日。飢えに耐えきれずにお弁当箱をこっそりあけた四時限目前の休み時間のことだった。


健介君は一般生徒です。外伝5「ある兄妹の思い出」


「その健介っていうのが、どの健介を指しているのかは知らないけど、確かに兄貴の名前は健介っていうよ」
 ウインナーを口に運ぼうとした手前におあずけをくらい、多少不機嫌になりながらも私は彼女、クラスメイトの佐倉愛衣に答えた。
 その言葉に彼女はほっとしたように笑ったのだが、そんなことはどうでもいい。
 私が気になるのは、彼女がどうして兄貴を知っているのかということだ。
 私の知る限り、彼女と兄貴は知り合いじゃないはずである。
 また、私も彼女とあまり親しくないために、兄貴がいるなんてことを話したことはない。
 そんな彼女が兄貴に何の用なのだろうか?
「あの、実は健介さんに学際中に助けていただいたので、そのお礼をしたいなと思いまして……」
 私のもの言いたげな目が気になったのか、彼女はそう兄貴への要件を話した。
「へえー、あの兄貴がね。
 どんなことをしたの?」
 私は、兄貴のした善行が気になり、そう彼女に聞き返した。
 とはいってもあの兄貴のことだ。せいぜい、落した財布を拾った程度だろう。
 そう思い、私は彼女の言葉を待ったのだが、返ってきたのは予想外のものだった。
「その、暴漢が現れた時に助けてくれたんです」
 私はその言葉に思わず目が点になる。
 本当に自慢にならないのだが、うちの兄貴は事なかれ主義だったはずだ。
 そんな兄貴が暴漢に立ち向かっていくなんて冗談としか思えない。
「人違いじゃない?」なんて思わずそんな言葉が口から出てしまった。
 しかし、それに対する彼女の答えはノー。
 なんでもちゃんと名簿を見て調べたから間違いないとのことだ。
 兄貴が、本当にそんなことをしたなんて信じられないが、彼女がここまで言うのだから確かなんだろうと、まだ疑いつつも納得することにする。
 というか、名簿を調べるなんてよくやったわね。
 確か、個人情報保護法なんかで自分のクラス以外の名簿なんて、そうそう覗けなかったような気がするけど。
 しかも、相手は男子校だ。ここからじゃ、随分遠いと思うけど。
 これは、彼女が律儀なのか、それとも……
「ひょっとして、佐倉さん。
 兄貴に惚れたの?」
 身内びいきに見ても、あまり冴えない兄貴なのだが、学際という盛り上がった状況だし、そういこともあるかもしれない。
 つまりは、吊り橋効果の親戚のような感じだ。
 そう思い、私は彼女の反応を覗うのだが、
「は?」
 相手は言葉の意味が分からないような、それでいてまったく予想外のことを質問されたかのような表情を浮かべていた。
 ああ、やっぱり違ったらしい。やっと言葉の意味を理解して「ち、違います」なんて慌てて弁解しているが、そんなことは否定されるまでもなく、先ほどの表情から理解している。
 そうよね、あなたは男なんて眼中にない人だったわね。
 思い出すのは彼女の噂。なんでも彼女はレズであるらしい。
 聞いた話では彼女には年上のお姉さまという存在がいるらしく、いつでも一緒にいるらしい。
 その姿はさながら子犬と飼い主のようだと誰かが言ってたっけ。
 まあ、そんなことは置いといてだ。
「何も、そんな風に全否定しなくてもいいじゃない」
 身内としては、予想されたことでも、その反応が面白くないのは確かなことだ。
 彼女は慌てて「い、いえ、健介さんは素晴らしい人ですけど……」とフォローを入れようとしているが、それに続く「異性としてはちょっとそういう対象には……」なんて言葉は余分だ。本人が聞いたらすごく傷つくと思う。
「はあ、それフォローになってないよ。
 それに、あんな兄貴でもいいところあるんだから」
 しょうがない。ここは妹として、兄貴の株を上げておいてやるとしよう。
「たとえば、そうねえ……
 あれは、私がまだ五歳の時の話だけど……」

 そう、あれは私がまだ自転車の乗り方を知らなかった五歳の夏の話だ。
 確か、八月二十一日のことだったと思う。
 え? なんでそんなに昔のことを日付まで覚えているかって?
 ああ、それは兄貴の誕生日の次の日だったから……
 その日、兄貴は朝から傍目でみて分かるほどうきうきしていた。
 理由は前日に誕生日プレゼントとして貰った新しい自転車の試運転をするからだ。
 ピカピカの真新しいマウンテンバイク。兄貴はこれで近所にある湖まで行くんだと私に自慢していた。
 そんな兄貴がうらやましくて、私は一緒に連れてってとせがむのだが、受けれてはもらえなかった。
 兄貴がダメというのもわかる話だ。当時、私はまだ満足に自転車に乗れなかったし、マウンテンバイクには当然荷台なんてないから二人乗りもできない。一緒に行くとなると、どうしても兄貴が私の足に揃える必要があったのだ。
 けれども、幼かった私はそんなことに納得が行かなくて、自転車で家を出る兄貴の後ろを走って追いかけて行った。
 兄貴はスピードさえ出せば、私が諦めると思ったのだろう。ものすごい勢いでペダルを漕ぎ、私からどんどん遠ざかっていく。けれども、私はどうしても諦めきれなくて、その離れていく背中を必死になって追いかけて行った。
 幼い子供はバランスが悪い。そんな事をすれば、どうなるかなんてわかりきっている。
 世界が低くなったと思った瞬間、顔面に走るのはものすごい衝撃。
 ほどなくして、私はアスファルトにキスすることとなった。
 転んだ時にすりむいたのか、むき出しになっている手足の肌が痛い。
 そして、何よりも強打したおでこと鼻が痛かった。
 知らず知らずのうちに涙があふれ、気づいた時には声をあげて泣いていた。
 しかし、そんなのも一瞬のこと。すぐさま「大丈夫か?」という言葉がかけられてくる。
 涙でくしゃくしゃになった顔をあげてみると、そこには困ったような顔でこちらを見ている兄貴の姿があった。
「はあ、しょうがない。
 一緒にいくぞ」
 そして、兄貴はそう言うと、自転車にまたがろうとはせず、自転車を引き、歩きだしたのだった。

「うう、いいお兄さんですね」
「まあね。
 でも、この話はまだ終わりじゃないよ」


 そのあと、私たちは泉を一周し、十分風景を満喫したあと変えることになった。
 もうすっかり日は傾いている。だが、空が昼間と違うのはそれだけではない。
 あんなに晴れていた空が気づいた時には黒くなっていたのだ。
 夕立ちである。
 はやく帰らないとと思ったのもつかの間、次の瞬間にはぽつぽつと、気づいた時には目の前のかすむような雨が降っていた。
「戻るぞ」
 兄貴のその言葉をきっかけに私たちは家路を急いだ。
 しかし、大粒の雨は私たちを容赦なく打ちつけ、服は瞬く間にびしょびしょになっていった。
 雨に打たれるというのは不思議なものだ。心がどんどん不安で満たされている。
 知っているはずの道なのに、知らない場所で迷子になったかのような気分になる。
「ひっく、ひっく」
 そして、私はその不安に耐えきれずべそをかいていた。
 視界がはっきりしないのは、涙のせいでもあるのだろう。
 そんな私の頭にかぶせられるのは野球帽。
 顔を上げれば、そのには兄貴が精一杯の笑顔を浮かべていた。
「大丈夫。
 俺がついているから」
 おそらく、兄貴一人だったら雨にぬれることもなかったはずだ。
 それでも、兄貴は私を責めず、こんな足手まといの私を必死に励ましていた。
 その言葉は何よりも心強く。そして、雨に濡れて冷たいはずの野球帽は何よりも温かかった。


「うう……
 健介さん。本当にいいお兄さんですね」
「まあ、普段はただの口の悪い兄貴だけどね」
 何やら感動で目に涙を浮かべている佐倉さんにわたしはそう答えた。
 というか、この程度で泣けるなんて、感受性高いわね。
 私はそう思うものの、それは口に出さない方がいいだろう。
 今のわたしにとっては、そんなことよりご飯を食べることの方が大事だからだ。
 休み時間はもう直ぐ終わってしまう。けれどもその前に、少しぐらいはお腹に入れておかないと、四時限眼が耐えられそうにない。そう思い、私は一心不乱にお弁当を食べ始めた。
「奥村さん……」
 しかし、そんな私に向かって佐倉さんはまだ用があるのか、話しかけてくる。
 当然、口の中が食べ物でいっぱいな私は満足にこたえることができない。
 そして、そのことを私は次の瞬間後悔することとなる。
 なぜなら……
「安心してください。
 私、奥村さんのお兄さんへの思いを応援しますから」
 佐倉さんがこんなことを言い出したからである。
「なに? どういうこと?」
 私はそう反論しようとするが、口は前述どおりにふさがっているために、実際に出た言葉は「ふが、ふがふがふが」だった。
「奥村さん。私にお兄さんがとられると思ったんですね。
 だから、あんな風に健介さんの名前を出したときに睨んでたんですね。
 でも、あんな思い出があるなら納得です」
 違う。睨んでたのは確かかもしれないけど、そんなことはありえないから。
 私は、そう言おうとするものの、やはり口がふさがっていて言葉がうまく出ない。
 ええい、こうなったら早く飲み込むしか……
 私はそう思い、四苦八苦するのだが、結局口の中が空になったのは佐倉さんが「お幸せに」と言い残し、去って行ったあとのことであった。

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