※これは、凄腕の工作員(スパイ、およびエージョント)として恐れられた健介君のおじいちゃんの話です。

  とある片田舎の喫茶店
 その中で、店の主は、いつものようにコーヒーを淹れていた。
 今日も客足はそこそこ。毎日見る顔が、毎日座る席で、彼の淹れたコーヒーを片手に雑談を広げていた。
 街とは違い、基本的に田舎の喫茶店では、常連しか客は居ない。
 それ故に、刺激は少なく、それを物足りなく感じるときもあったが、初老を迎えるこの男は、今ではそれでもいいと思っていた。
 コーヒーサイフォンの水が沸騰し、下の器から上の器へと湯が上がっていく。
 それを眺めながら、店の主は、そろそろかと店の中央に位置する柱時計を見上げていた。
 何かと言えば、なじみの客がまた一人来る時間だということだ。
 客にはだいたい店に来る時間というものがある。常連客になるほど、その時間は、固定的だ。
 さて、あの男は今日も来るのだろうなと考えていると、店のドアが開いた。
 チリンチリンとドアについたベルの音が響く。それと共に入ってくるのは、五十を過ぎた一人の男。人懐っこい笑みを浮かべているが、その実、目つきは鋭い。表情をなくせば、ヤのつく人で通るに違いない。
 彼は、真っ直ぐにカウンターまで来ると「よお、兄弟。コーヒー一杯」とガラついた声で言った。その声色は、いつもより明るい。何か良いことがあったのだろうか?
 そのことを疑問に思い、店主は男へと問いかけた。
「お、分かるか? 分かるよな。
 実は、今日、孫が来ることになっててよぉ。
 娘の顔も、今日見れるし、楽しみで、楽しみで」
 心底嬉しそうな顔で男は言う。孫がかわいくて仕方がないといった感じだ。
「いやー、若い頃は色々あったが、今は幸せすぎて怖いくらいだ。
 それこもれも、カレラに出会えたからだな」
 カレラというのは、この男の妻の名前だ。聞いて分かるように、彼の妻は日本人ではない。当時には珍しく、国際結婚というやつだ。
 彼が妻のことを心底愛しているのは、周知の事実だ。
 それもこれも、彼が何かにつけて、のろけ話をすることが原因だろう。
「よし、今日も特別に、俺とカレラの出会いを話してやろう」
 男は、笑い声を上げながら言った。その話は五日に一度は聞いている。これを多いと見るのも少ないと見るのも人それぞれだろうが、残りの四日が、妻との再開編、初めてのデート編、プロポーズ編、新婚旅行編とくればどうだろうか?
 店主が何も言わないことをいいことに、男は今日も話をかってに始めた。

健介君は一般生徒です。外伝11 ある祖父の思い出

 じゃあ、兄弟。話を始めようか。
 あれは今から三十年前くらいの話だ。当時の俺は宅配会社の社長をやっていてよ。
 とは、いっても従業員は俺一人の小さな会社だ。当然、そんなのが、普通の宅配をできるかと言えば、そうもいかねぇ。
 そこで、俺は考えたのさ。『いつでも、何処へも取りに行き、何処へでも配達します』を合言葉に、割高だが、北極でも南極でも配達するっていうサービスをよぉ。いまで言う、ベンチャービジネスというやつだ。
 俺のもくろみはうまくいき、固定客というものもついてきた。
 もっとも、そのほとんどが政府のお偉いさんだったがね。
 須藤さんという方も常連の一人だった。ある日、その人が、海外の人を連れてきたんだよ。
 男と女の二人だ。男のほうは、白髪の混じった人で、見るからにお偉いさんといった感じだったな。
 もう片方は、黒髪の女だ。こっちのほうは、はっとするような美人でよ。思わず見とれそうになったんだわ。
 まあ、これがカレラなんだけどな。
 とりあえず、俺はロシア語で挨拶をしてみた。
 なんでロシア語だったかといえば、須藤さん関係の仕事はだいたいソ連とのやり取りが多かったんだよ。なんかソ連のどこそこから、何々を持ってきてくれというのが、ほとんどだったな。よっぽど、ソ連に友達が多いんだろう。
 まあ、そんなわけで挨拶したんだが、返ってきたのは英語だった。結論から言うと、彼らはアメリカの人たちだったらしい。
 その人も、俺にソ連から荷物を持ってきて欲しいらしいんで、俺を紹介したんだそうだ。
 だけれど、その須藤さんのいうには、俺のほかにも宅配業者を頼んだらしい。成功率をあげるためだとか、抜かしていたが、俺のような小さな宅配会社をあまり信じていなかったんだろう。
 当然、面白くなかったのは確かだ。
「絶対に、持ってくる」
 そう、大見得きって断言したよ。
 その姿にあちらはどう思ったかは知らないが、白髪交じりのおっさんは、口元に笑みを浮かべていた。
 んでもって、仕事の話だ。手渡されたのは、一枚の写真。そこに映っていたのは、へんな形をした黒っぽい物品だった。
 虫みたいに、金属の足が何本も生えててよ。はじめ、なんだかよく分からなかったが、よくよく聞いてみると、電子部品というものらしい。それを俺にもってきて欲しいらしい。
「場所は、ヤクーツクで?」
 俺は尋ねた。そこだと思ったのは、よく須藤さんから、そこへの仕事を頼まれていたからだ。
 相手の言葉はイエス。それなら善は急げと、話そこそこで切り上げ、俺は早速仕事に出ることにした。
 まあ、急ぎすぎるという奴もいるだろう。だが、こっちとら、弱小の宅配会社だ。
 そんな悠長なことは言ってられない。急用のための旅行セットもちに、自宅へと帰ろうとした。
 ところがよう、そこでカレラがついてくるっつう話になったんだよ。
 一人の方が身軽だ。そのことを向こうに伝えたら、カレラは怒った表情を浮かべて、早口で抗議してきたな。
 口やかましかったから、ついてくるのは了承した。
 もっとも、すぐに準備ができていなければ、置いていくつもりだったがな。
 五時間後、空港で待ち合わせをして、第三国へと飛んで、ソ連へと入った。
 ヤクーツク空港へだ。その辺の準備は周到で、須藤さんが手配していてくれた。パスポートが切れ掛かってたんで、そこんところもお願いしてた。
 機内中、彼女は無言だ。俺も話しかけないのが悪かったんだけどな。
 でも、しょうがねえよ。そのときの俺は、本当にシャイでな。
 彼女に話しかけようとすると、どうしても緊張してしまって、うまく話せなかったんだ。
 発した言葉は、せいぜい事務的な言葉ていどなもんよ。
 あのときなんて、こんな風にくっつくなんてことは想像できなかったな。
 まあ、そこんところはおいといてだ。
 さすがはソ連、北にあるだけあって寒い。初夏というのに、雪がちらついててよ。
 空港を出る前に、早速コートを羽織ろうと思って鞄を開けたんだが、しまったことに、鞄を間違えてた。
 北用の鞄を持ってきたと思ったら、南用の鞄で、中に入っていたのは、小粋なアロハシャツだけだった。
 仕方なしに、空港を出て、気温が上がるまで、暖をとろうと、近くの店へと入ったんだ。
 そこは、喫茶店兼酒場みたいな場所で、大の男が昼真っから酒を飲んでいたな。
 それも一人じゃねえ、十人ほどだ。実に楽しそうに飲んでいた。何かめでたいことがあったんだろかと思い、一人に聞いてみたら、その中の一人に子供が生まれたらしい。
 ほう、そいつはめでたいと、俺も嬉しくなって、出産祝いでも渡そうかと、鞄を開いた。
 始めに目に付くのは、小粋なアロハシャツだけどな。改めて考えると、渡せるものなんて、初めから持ってねえ。
 まあ、これでいいかと、それを掴んで、俺は、プレゼントしたわけよ。
 そしたら、えらく喜んでくれてな。それのお礼をしたいと、むこうが言ってきたわけだ。
 だけど、こっちとら出産祝いにくれてやった品だ。そんな、お礼なんていらねえ。
 そんなことを伝えたら、むこうは、なら一緒に騒ごうと酒を勧めてきた。さすがにこれを断るのは、むこうに悪いと思って、一緒に飲み始めたのよ。
 だが、北の酒はやっぱりきつい。仕事前だというのに、よってしまった。
 その後は、一緒になってのドンチャン騒ぎよ。仕事のことは頭にあったが、気が大きくなっているせいで、まあ、どうでもいいかと思っていた。
 そのうち、小さなジュラルミンケースを抱えた、一人の男が店に入ってきた。だが、これが辛気臭い男でよう。さっきから顔を俯かせている。
 どうしたんだと、聞くと、人が来ないんだと。余程寒い場所に立っていたせいだろう。顔色も悪くてな。小刻みに震えている。
 体調はひどく悪そうだ。
「大丈夫か?」と声をかけ、懐から薬を一錠出した。
 風邪薬だ。こういう飛び回る仕事をやっている人間の必須ってもんよ。
 だが、初めて会う人間に、薬を渡されて、おいそれと飲む人間なんて居ない。はじめ、そいつも警戒してたんだがな、俺の後ろの方を見た後、なぜか安心したように、それを飲んだんだ。
 そのうち、さっきまで一緒に騒いでいたやつが、俺がこの男と話しているのに、気がついた。
「よお、そいつはどうしたんだ?」
「おお、なんか風邪っぽいぞ。
 迎えが来なくて、立ち往生していたせいで、悪化させたらしい。
 世の中ひでえやつも居たもんだ」
「はっはっは、そうつは、災難だな。
 だが、風邪なんていうもんは、酒を飲んでりゃ直るってもんよ」
 ほれ、お前も飲めと、一緒に騒いでた男の一人は、この体調の悪そうな男に酒を勧めた。
 はじめは断ってたそいつも、ついには押し切られてな。一口だけといって飲んだんだよ。
 だが、そいつ、本当に酒に弱いやつでな、すぐに顔を真っ赤にしちまいやがった。
 まあ、だが、よってしまえば、みな同じってまた一緒に騒ぎ始めたんだよ。
 そのうち、騒いでいる奴の一人が、男の持っているジュラルミンケースの中に何が入っているんだと、聞き始めた。
 そんなたいそうな鞄に入れているくらいだから、さぞかし大事なもんなんだろう。
 みんなも気になり始めて、それをあけるように催促する。
 そうしたら、そいつも乗り気になって、中身を空けたんだ。だが、その中身を見たとたんに、俺はちょっと後悔したんだ。
 何をかって、まあ、色々とだ。その際たるものは、もっと人の話を聞きましょうってとこなんだろうな。
 そいつの持っているケースの中身、それは、俺が受け取るはずの荷物だったんだよ。
 どうやら、寒空の下、こいつを待たせていたのは、俺らしい。
 おかしいな。受け取り場所は、軍事基地内って言っていたのに。
 どうやらそれは聞き間違いで、空港だったようだ。
 そのことを素直にわびると、そいつもちゃんと許してくれた。
 中身だけを受け取り、ケースを返す。荷物を渡せたことに安心したのか、そいつは酔いつぶれて眠ってしまった。
 さあ、もう一杯飲もうかと思い、グラスに酒を都合としたんだけど、そこで視界の中にカレラの奴が入ったんだ。
 カレラは呆然とした目でこちらを見ていてよ。そこで我に返った。
 俺は客の前で何をやっているんだと。
 今更取り繕ったところで、遅いような気がしたんだが、気分を仕事モードに切り替えて、彼女と一緒に店を出たんだ。
 その後? はっはっはっは、帰りも終始無言のまま飛行機の椅子に座ってたよ。
 本当に、あの頃はこんな風にくっつくとは思わなかったなあ。


- 目次 -

inserted by FC2 system