とある田舎にある一戸建ての日本建築の一室。
 そこでは、齢五十当たりになる初老の女性がお茶をすすりながら、縁側に座っていた。
 明らかに、西洋風の顔をしているのにも関わらず、その光景に違和感がないのは、ひとえ彼女の行動が『手馴れている』というところからだろうか。
「あらあら、あの人ったら。どこをほっつき歩いているのかしら。
 もうすぐ佳代ちゃんが帰ってくるのに。
 まあ、行き先は、あの店でしょうけど」
 呟く言葉は、英語。そこに若干のあきれ以上の何かが混じっているのは、彼女の夫が行き先の店で、よくろのけ話をしているという噂を聞くからだろう。
 その内容がいかにもでたらめに聞こえるらしく、幾度か本当かと知り合いに問われた事はある。
 ああ、確かにでたらめだった。聞かれた話の五割がたが嘘であろう。
 本当は、もっと信じられないような話なのだから。
 今日はきっと二人の出会い編あたりでも話しているのだろう。
 彼女は、そんなことを考えながら、昔のことを思い出していた。

健介君は一般性とです。外伝11後編 ある祖母の思い出

 それは、彼女がまだCIAに勤め、日本できたときの話だ。
 ある日彼女は、上司からアメリカからソ連へと科学者が亡命しようとしているという話を聞いた。
 技能的には大したことない人物だが、問題は彼がソ連へと亡命しようとする際に持ち出したものだ。
 この時代、アメリカとソ連は宇宙開発で競い合っていた。その科学者が持ち出したのは、よりにもよって、ロケットに使用される電子部品だ。
 ソ連に入られる前に身柄を押さえないとまずい。いや、身柄などはもうどうでもいい。最悪、電子部品の回収、もしくは破壊を行わなければいけない。あれが、ソ連側に渡るのは、何としても避けたいところだ。
 相手の足取りはとれないが、ヤクーツクに向かっていることは調べで分かっているらしい。
 上司はヤクーツクへと行ってほしいと彼女に言った。
 最悪の事態に備えてほしいと。
 なるほど、と彼女は理解する。
 その最悪の事態には、自分の死も含まれているのだろうと。
 ヤクーツクは当然ながら、ソ連の勢力圏内だ。そんなところで、事を起こしたら、ただで済むとは思わない。
 祖国に命を預けた身であるので、命令自体には不服はないが、死に急いでいるわけではない。
 仲間がその科学者をソ連に入る前に捕まえてくれることを願うしかない。
 その彼女を上司は不憫に思ったのか、ガイドをつけると言った。
 フリーで腕のいい人間がいると。
 上司の指示のもと、訪れたのは、東京の下町にある小さな飲み屋。
 その個室にいたのはスドウといったか。日本の公安の人間だった。
 彼がそのガイドかと思ったが、それは違ったらしく、すぐ後にぱっとしない一人の東洋人がでてきた。
 鈍そうな男だというのが、第一印象。しかし、その目つきは恐ろしく鋭かった。
 彼は流暢なロシア語でこちらに話しかける。日本人らしからぬ完璧な発音に、マイナスのイメージは完全に払拭された。
 ショウゾウという名のその男は、話しぶりからいって、ソ連へは何度も行っているのだろう。
 それに、どうやら洞察力もすぐれているらしい。こちらの話の数少ない情報から、行き先がすぐにヤクーツクだということを言い当てて見せた。自分の未来に指す光が強くなった瞬間だった。
 上司が彼と仕事の話を続けていく。そのうちに、私が一緒に行動することを伝えたのだが、そこで彼は、私の同行を拒んだ。
 彼いわく、一人のほうが身軽でいいらしい。
 そこで私のプライドが傷ついたことは確かなことだ。CIAでも優秀なほうだという自負はある。
 今考えると、恥ずかしいことなのだが、私は自分の同行を認めるように彼に食いかかった。
 彼のことを知っている人物から見れば、子猫がライオンに噛み付いているように見えていただろう。
 私の言葉に、彼は顔を一度だけしかめると、しょうがないといった感じで同行を認めた。
 それがまたカチンときたのも事実だ。そこから生まれた対抗意識から、あら捜しをするかのように、この仕事中、私は彼について観察し続けた。もっとも、それを続けているうちに分かったのは、彼の有能性だけだったが。
 彼は物静かな人間で、いつも何か考え事をしていた。行きの飛行機の中でも、彼からこちらに話しかけることはなかった。
 おそらく、この仕事についての問題点を考えていたのだろう。突然の仕事ゆえに時間は限られている。それを少しでも無駄にしまいとする姿には交換が持てた。
 また、彼は非常に演技がうまい人間だった。ヤクーツクについた後、初めに入った酒場での溶け込みようは異様の一言だ。
 そして、彼はなによりも策士だった。はじめ、街の酒場に入った時に、私は彼が酒場に入り、そこで休んでいる兵士たちと話し合ったのは、彼らから情報を集めようとしているのだと、思っていた。
 だが、それだけだと思った自分は、本当に浅はかだった。
 少しした後、店に入ってきたのは一人の男だ。その顔を見たときに、私は思わず息をのんだ。
 入ってきたのは、私たちが追っている男だったのだから。
 もうついてたの? と私は心の中で驚きの声をあげた。
 当初の予定より一日早い。
 相手がここにつくのは明日だと思っていたが、その予想は甘かったらしい。
 亡命者の右手にあるのは、ジュラルミンケース。その中身はおそらく盗まれた電子部品であろう。
 彼が、ソ連政府の人間とまだ合流できていないことには、不思議に思ったが、問題はこれからどうするべきかということだろう。
 ショウゾウも男が入ってきたのには気づいたらしい。彼のほうを見る。どうするのかと、彼の動きを見守っていたが、なんと、彼は大胆にも男へと話しかけたのだ。
 男の体調が悪そうなことをショウゾウは判断すると、親切な人のように、風邪薬を差し出した。
 東洋系の顔の人間が、ソ連にいるのも不思議な時代、その怪しげな男の出した薬を男はなかなか飲もうとしなかったが、彼が他の兵士たちと楽しそうに談笑していた事から、地元の人間だと判断したのだろう。
 警戒を解いて、彼の薬を飲んだ。もっとも、後で聞いた所、それは本当に風邪薬だったらしいが。
 だが、そのただの風邪薬でも、酒が入ればとたんに強力な睡眠薬に変わる。
 彼は周りの兵士たちを使って、そのまま彼に言葉巧みに酒を飲ませた。
 まもなく男は酔いつぶれて眠りこける。それに対してショウゾウは、さも自分がこの荷物の受取人だという顔で、彼の持っていたジュラルミンケースを握り、店を出ようとした。
 鮮やかな手並みだった。これが彼の計画だったのだろう。だが、かの男がこの時間にここに現れるという情報はどこから仕入れていたのだろうか? その情報網を考えるだけでも、薄ら寒いものを感じた。
 男を眠らせる流れが自然なことから、自体が発覚するまで、いくばくかの時間を稼ぐことはできただろう。
 少なくとも、私と彼がソ連を出るまでの時間くらいはあるはずだ。
 まるで、魔法でも見ているかのような気がしながら、私はこうして死地から脱出することができた。
 これが、私と彼との出会い。
 まさか、この時の私は彼と結婚までするとは思ってもいなかった。。


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