麻帆良の外れに小さき池在り。
 ある時、子供が水遊びをせし折りにおぼれけり。
 母親、助くべく飛び込むもついぞ童は沈みけり。
 そこへ池に住し慈悲深き龍現れ、童を救いけり。
 母親、龍に感謝しこれを祭る。
『麻帆良書紀−辰巳屋(龍宮)−より抜粋』


健介君は一般生徒です。第十話
至上最大(に見える)決戦



 ヘイ、ブラザー。久しぶりだな。
 元気か?
 俺のほうは今、人生について深く考えている所だ。
 分かっていたら教えてくれ。なぜ俺はこんなところに立っているのだろうなぁ。
 今までも『なぜ自分はこういう状況に立っているんだろう』と思ったことは今まで何度とあったさ。
 しかし、これは極め付けだろう。
 周りから聞こえるのは沢山の応援と歓声。
 俺は今、武闘会の会場に選手として立っていた。
 ……しかも、志々雄真実の格好で。
 志々雄真実とは、昔ジャンプに連載されていた『るろうに剣心』という漫画に登場する、全身包帯男の名前だ。
 まあ、そんなことは、どうでもいい。
 大事なのは俺が武闘会に選手としているということだ。
 珍妙な格好をしていても死ぬことはないが、武闘会にでたら間違いなく死ぬ。
 それは間違いない。
 何?
 おおげさだろうって?
 何もしらない奴はそういえるだろう。
 しかし、お前達は目の前のとんでも映像を見てもそういえるのか?
 コインで灯篭が砕けるんだぞ! 人が一瞬にして消えるし、パンチでリングに穴があくんだぞ!
 それを見た瞬間。とんでもないところに来てしまったと、つくづく思ってしまった。
 そして、帰りたくなった。けどそうはいかない。
 だって、真由美さんが観客席で応援をしてくれるのだから。
 ここで帰ってしまったら、男がたたないだろう。
 真由美さんは俺が武闘会に出場するのを楽しみにしていたからな。
 昨日なんて、武闘会用の衣装を作るって張り切っていたし。
 勢いあまって、三着ほど用意していたが、俺は志々雄真実を選ばせて貰った。
 他の選択肢としてシャア・アズナブルとマスク・ザ・レッドがあったが、これが一番まともだろう。
 それはともかく、俺の相手は誰なんだ?
 分かっているのは、俺の対戦相手の名前がエヴァンジェリンというだけ。
 顔写真も見ようとすれば、見られるのだが、俺はわずかな希望にかけるために、あえてそれをしなかった。
 先ほどから俺の視界の隅に映るのは、最大の危険要素である『幼女』の姿だ。
 選手側にいるということは、もちろん選手だろう。
 どうか彼女の名前がエヴァンジェリンでありませんように、と切実に願う。
 しかし、この時点で俺もすでに分かっていたさ。
 自分をもだませない嘘は人を不快にするとは誰の言葉だっただろうか?
 聞きたくないけど、聞こえてしまう会話っていうモノはよくある。
 しかし、俺はあえて思うのだ。
 幼女にむかって、エヴァンジェリンとかエヴァとか投げかける言葉を何とかして聞こえないようにできないものかと。
 だけど、現実っていう物は変えられないんだよね。
 舞台にあがれば、嫌でも自分がこれから闘わなければいけない相手というものが分かってしまう。
 相手は他事を考えているのか、こちらのことが眼中にない様子だが、油断はしていられない。
 生きるためには貪欲にならなければいけないのだ。
 油断は死を招く。今回の場合は特に。
 幼女に向って「カワイイ」なんて叫んでいる奴。
 変わって欲しかったら金を払ってでも即座に変わってやるぞ。
 貴様らはこいつの正体が分かっていないから、そんなことが言えるのだ。
 さて、どうする?
 先制攻撃を仕掛けるか?
 そうは思ったものの、すぐにそれを没にする。
 返り討ちになるのが目に見えているからだ。
 ない頭を振り絞って考えるものの、いい案は出てこない。
 なんとか無事に負ける方法はないものか。
 しかし、司会の女はこっちの事情を知るはずもなく、無情にも試合の開始を告げた。
『第八試合、ファイト!』
 その瞬間だ。俺の頭に電撃のように名案がひらめいたのは。
 そうだ。無事に負けるのに、何も相手の攻撃を待つまでもない。
 なぜ、いままでこんなことに、気が付かなかったのだろうか。
 ギブアップしずに、怪我無く、無事に負ける方法はちゃんとあるではないか。
 自分から吹き飛べばいい。
 つまり、負けたふりである。
 先ほどから、とんでも映像で蠢く会場で、今更人一人がいきなり吹き飛んだ所で、誰も疑問に思わないだろう。
 そうと決まれば、思い立ったら吉日。
 俺はそれを早速実行に移すべく後ろに跳び……
 ……腹に重い衝撃を受けた。
 衝撃はやがて重い痛みへと変化する。
 それが殴られたためだと気付いたのは、情けなくも拳を突き出した幼女を見た時だった。
『おっと、一瞬マクダウェル選手が動いたと思ったら、山下選手がいきなり吹っ飛んだ!
 これはダメージが大きそうだ』
 誰が見ても大ダメージだろう。何しろ、もと居た位置より俺は舞台ギリギリまでの位置に吹き飛ばされたのだから。
 事実、俺の胃は自分の意思に関係なく、氾濫を起こそうとしている。
 さっき食べたパスタが思わず胃から出そうだ。
 しかし、ここに司会の言葉を否定するものが一人居た。
 俺ではない、解説のリーゼントの野郎だ。
『いや、これはダメージは、ほぼ無いと見て間違いないでしょう』
『どういうことでしょうか、豪徳寺さん』
『あの一瞬ですが、山下選手は間違いなく後ろに跳んでいました。
 そうすることによって、自分の受けるダメージを減らしたのでしょう』
『つまり、山下選手は、ほぼ無傷と?』
『ええ、そうです』
 何が『ええ、そうです』だ。
 お前の目は、絶対に節穴だ。
 視線で人が殺せるものなら、俺は間違いなくあのリーゼントの野郎を地獄に叩き落としていることだろう。
『しかし、山下選手は一向に起き上がろうとしませんが』
『おそらく、それは演技でしょう。
 マクダウェル選手のパンチは正確にあたっていたであれば、大の大人でも失神してしまうような一撃です。
 それをモロにくらったと見せかけて、相手を油断させようとしているのでしょう』
 その言葉を聞いた瞬間。俺の頭の中で何かが切れた。
「うっせい、だまれ!」
 思わず感情の趣くまま立ち上がり、リーゼントを罵倒する。
 くそっ、何が演技だ。だったら貴様、あの一撃を本当に食らってみろ!
 と思わず続けそうになるが、そこで俺の動きは止まった。
 気付いてしまったからだ。さっき、そのままダウンしていれば、難なくカウント負けできたであろう事実に。
『おおっと、自らの策をバラされた山下選手。
 解説席に向かって罵倒しています。
 しかし、なんと姑息な手でしょうか』
 司会は俺のことが嫌いならしい。
 彼女の声につられて、会場からは俺に対する否定的な言葉が飛び交っていた。



 ナギのことについて考えていたら、気付かぬ内に手が出ていたようだ。
 自分の対戦相手は遠くの方に吹っ飛んで言った。
 普段なら、ゴミが吹っ飛んでいったとしか思わなかったであろう。
 しかし、相手が吹き飛んだ瞬間。私の中に広がったのは違和感だった。
 相手の様子にしてはあまりにも手応えが無かったからだ。
 思わず自分の拳を目をやり、そして次に相手に目を向ける。
 相手にはまだ意識があった。ありえないことだ。
 私の見立てでは相手は一般人と大して変わらないはずだ。
 それが、無意識とはいえ、私の一撃を食らって意識があるだと?
 まさか、あの瞬間後ろに飛んだのか?
 その考えは茶々丸の横にいる男の言葉によって証明される。
 だが、私が気になったのは茶々丸の横にいる男の言葉ではなく、それを睨みつける対戦相手の目だった。
 あの今にも人を殺しそうな、明確な殺意を持った目。
 解説者の男が、言葉を続けた時に立ち上がって叫んだ時の目などは、素人など動けなくなるような眼力を持っていた。
 モロに喰らった振りを朝倉は姑息な手などと言うが、私はそうは思わん。
 その差は、本当の殺し合いを知ってるか、知らないかの差だ。
 本当の殺し合いでは、綺麗ごとは通じん。生き残ったほうが勝ちなのだ。
 そして、相手のあの声。
 私はあの声を知っている。
 包帯などで顔を隠してどういうつもりだ。
 元SSWの奥村健介よ。
 いや、それも当然か。
 顔を知られることは、闇に生きて来たお前にとって、致命傷になりかねないからな。
 最初はくだらないものに出場したものだと我ながら思ったが、こんなに楽しくなるとは思わなかった。
 さあ、血と策略の宴を始めようではないか。
 私は相手に悟らせないように舞台上に糸を張り巡らせる。
 それは巣を張り巡らせる蜘蛛のように。
 その間も相手に対する警戒は緩めない。
 相手は元SSWだ。油断をするなどもっての他だ。
 私は相手を睨みつける。相手も包帯の隙間からこちらを睨み目をそらさない。
 その瞳に映る闘志は冷めたもので、本当に戦う気が無いように見える。
 だが、その奥ではどうやって私を倒そうかと策略をめぐらせているのだろう。
 気に食わないな。そのいけ好かない目をすぐに変えてやる。
 糸は存分に張り巡らせた。後は獲物を捕らえるだけだ。
 手元を振るわせ、相手に糸をかけようとするが、その瞬間相手は後方へと跳んだ。
 その先にあるのは池だ。わずかな水しぶきと共に相手は水の中へと飛び込む。
 気取られたか。そして、さすがの判断だ。
 舞台上はどこへ行っても私の糸が待っている。逃げる場所は水中しかない。
 一瞬追いかけるかと思ったが、それは二つの理由から止めた。
 一つは相手が池の中で待ち伏せをしているのを警戒して、もう一つはこれがあくまでも試合であり、本当の戦闘ではないということだ。
 相手が待ち伏せをするつもりなら、わざわざ行く必要は無い。時間が私の味方をしてくれるだろう。
 さあ、どうする奥村健介。



 やられた振りをするという発想自体は悪くは無いのだ。
 ただ自分が途中でその行為をやめてしまったことだ。
 ということは取るべき道は一つしかないだろう。
 すなわち、もう一度不可視の一撃を喰らったふりをするというもの。
 相手はとりあえず動かないようだし、チャンスは今しかない。
 俺は勢いよく後ろへと跳んだ。
 それは見事な跳びっぷりだ。
 勢い余って池の中に飛び込んでしまうほど。
 反省すべき事象としては、自分が舞台の端に立っていたことを忘れてしまっていたということか。
 だが、そんなことはどうでもいい。
 問題はだ。おれ自身が泳げないということだ。
 あの幼女と初めてかかわった時もこんなことがあったような気がする。
 くそっ、あの幼女がかかわるとやっぱしロクなことがおきねえ。
 水の中は冷たく。水面は遠い。息がもたない。
 意識が遠のく。虚ろになっていく視界の中で、俺は……
 ……水中の奥深くで光っているものを見つけた。
 これが幻覚というものかと考える暇も無く光はどんどん近づいてくる。
 それが生き物の両目だと気付いたのは、その生物が俺の顔を覗き込んだ時だった。
 残り少ない酸素が思わず口から漏れそうになる。
 っていうか、龍ですか?
 ドラゴンですか?
 オーケー落ち着いて話し合おう。
 水中じゃあ声が出ないけど、意思疎通ができるものと信じたい。
 ははは、相手は優しそうな目をしてるじゃないか。いかつい顔をしているが。
 大丈夫、愛は世界を救う。ってなんで口開いてんの?
 牙が、牙が刺さってるって。
 訳の分からないまま、俺は龍に咥えられ気付いた時には空気の中に居た。
 水しぶきと共に放り投げられ、放物線を描くままに舞台上に落下する俺。
 あの龍が俺を助けてくれたと気付いたのは大分あとになってのことだった。



 水しぶきと共に相手は水中から現れる。
 気になるのは、大量の水しぶきの間から一瞬見えたドラゴンの姿だ。
 いや、あれは竜ではなく龍であろう。
 すぐに龍は人目につかないよう、水中にもぐってしまったが、なるほど、相手が水中に飛び込んだのはそのためか。
 おそらく、事前に召喚していたものなのだろう。
 それを水中に潜ませ、迎撃させようとはなんと狡猾なことか。
 あそこで追いかけていたらと思うとぞっとする。
 だが、貴様はあせり、水中から飛び出した。
 貴様の負けだ。
 私は糸を操り、相手を捕らえようとするが、そこで自らが自分の糸の状態に気付いた。
「何!」
 思わず声を上げてしまう。糸を持っているほうの片腕が枷を嵌められたようにひどく重い。
 これは水の重み!
『おーと、これは山下選手が水中から現れたと同時に、糸が現れた。
 いったい、どういうことだ』
 私がそう思うのと、朝倉がそういったのは同時だった。
 次に私は相手の真の目的に気付く。
 奴の真の狙いは糸の可視化だということに。
 水の重みによる動きの鈍化はあくまでもおまけだ。糸による操作は、使用する糸が見えないことで最大限発揮される。
 奴はそれをなくすために、糸に水をふりかけ、糸にあたる光が反射しやすい状況を作ったのだ。
 つづいて始まるのは茶々丸の横に居る男の解説。
 奴は今の私の状況をこと細かく素人にも分かるように説明をする。
 だが、私にはそんなことを聞いている暇は無い。
 一瞬迷ったが、私はせっかく張り巡らせた糸を放棄し、相手に突っ込むことを選択した。



「ごほっ」
 むせると同時に俺は前かがみになった。
 少し水が肺に入ったのか、断続的に咳がでる。
 苦しい、思わず膝が地につき、助けを求めるように片手を上へと伸ばす。
 何かその時当たった気がしたが、そんなことはどうでもいい。
 医者が居るんだったら、さっさと俺をドクターストップにしてくれ、などと思っていると、どうにか肺は正常に動き始めた。
 状況を確認しようと前を見れば、こちらを凄い目で睨んでいる幼女の姿。
 なんでさ。
 思わずそんな言葉が口から出そうになった。



 距離をつめて顔面に打ち込もうとした拳はあっさりと空を切った。
 相手が急にかがんだためだ。まあいい、こんなもの端から当たるとは思っていない。
 一発目はフェイクだ。本命は拳の勢いをそのまま受け継いだ回し蹴り。
 十分な重さを乗せたかかとを、奴の横顔に叩きつけてやる。
 そう意気込み、私は相手の米神めがけて足を振り回す。
 当たった! その瞬間だった。
 そう思い油断したのがいけなかったのだろう。気付いた時には相手の顔はさらに下へと移動していた。
 端から見れば、相手がこちらに土下座しているかのような状況。
 ただ一つ違うのは、相手がすっと手を伸ばしてきたことだ。
 それは私のかかとに音も無く添えられる。
 そして次の瞬間、私は顔面から地面へと叩きつけられることとなった。
 ぐっ、思わず痛みに声が漏れそうになるが、それを押さえつけてすばやく起き上がり相手と距離をとる。
 追撃が来るかと構えたが、相手は何をするわけでもなく、普通に立ち上がる。
 その余裕ある姿がなんと腹立たしいことか。
 それよりも腹立たしいのは、相手が本気を出していないということだ。
 奴は何の気や魔力による強化をしていない。今の私ではそれで十分だというのか。
『一瞬の攻防! マクダウェル選手が距離をつめたかと思うと派手に倒されました!』
『あれは、いわゆる柔道で言うところのツバメ返しですね。
 通常は相手の足払いの力を利用して相手の足を払い、投げ飛ばす技なのですが、今回は相手の蹴りに手を添えることによって投げ飛ばしたのでしょう。
 別段力の要る技ではありませんが、それだけにタイミングが難しい技でもあります』
 悔しさに唇を強く噛む。
 口の中に血の味が強く広がった。
『しかし、すばらしい闘いですね。
 先ほどの桜咲選手や神楽選手のような華のある闘いではありませんが、それ故にこの闘いは他のどんな闘いよりも高度なものです』
『といいますと?』
『これは戦闘レベルの闘いではなく、戦術レベルの闘いだということです。
 桜咲選手と神楽坂選手の戦いが飛車と角の闘いとしたら、彼らの戦いはその他の駒を駆使する王将の闘いというべきでしょうか。
 ああやって見詰め合っている時が多いですが、それは水面下での攻防の結果に過ぎません。
 相手の動きを機敏に感じ取り、それを読み取りながら、彼らは作戦を立て替えているのです。
 言い換えれば、彼らの実力が戦術的に五分だからこそあそこまで拮抗し、相手の裏を読み取ろうとする闘いになっているのでしょう』
 ふ、戦術的に五分だと?
 解説者の男の言葉に私は笑った。
 何が五分なものか。どこを見ている。
 相手のほうが何枚も上手ではないか。
 それを悟らせないのは奴が実力をまだ隠しているためだ。
 だが、いけ好かないあの包帯の奥では私を笑っているに違いない。
 さあ、どうする。相手は何を考えている。
 ここは… 私は今度こそ奴の余裕を打ち砕いてやろうと拳に力を込めた。



 な、戦術的に五分だと?
 リーゼントの言葉に俺は言葉を失った。
 何が五分なものか。どこを見ている。
 幼女の方が何倍も凶悪ではないか。
 それを悟らせないのは奴がまだ猫をかぶっているからだ。
 だが、あの人形のような可愛らしい表情の奥では凶悪な笑みを浮かべているに違いない。
 さあ、どうする。相手はどう俺を殺しに来る?
 ここは……
 俺は生を勝ち取るために、今度こそ逃げようと足に力を込めた。
 三十六計逃げるにしかず。
 平穏な世界を手に入れるために俺は全力で逃げ出した。
 もう、なりふりなど構っていられない。
 なさけなくとも、今は逃げ切ることこそが肝心だ。
 生きてるこそのものだねだと、よく言うではないか。
 出口へと俺は走るが、次の瞬間バキッという何かが砕ける音と共に俺の逃走は止められた。
 顔を巻いてる包帯を誰かにつかまれたからだ。
 激しい運動によって緩みかけていた包帯はすぐに解け、俺はあわてて顔を隠す。
 この幼女のことだ。顔をさらせば、俺のことを徹底的に調べ上げ、後で闇討ちをしに来るに違いない。
 身の安全を確保するために、顔を見せる訳にはいかないのだ。
 それと共に、これは格好よく負けるための最後のチャンスではないかと俺は悟った。
 頭の中ですぐさま作戦を立て、それを間髪いれずに実行する。
「顔を見られる訳にはいかないんでね。
 悪いが、ギブアップだ」
 負ける理由としては十分だ。
 俺は一方的にそう宣言すると、舞台の上から去っていった。



 相手の行動、それは私にとって、予想外のことであった。
 奴はいきなり何を思ったのか、あさっての方向に走り始めたのだ。
 意図がまったくもって読み取れない。何を考えている。
 頭の中に疑問が走るが、だからといって私のやる行動は変わらない。
 奴は本気を出していない。相手の心には遊びがある。
 つけいる隙があるとすればそこしかないからだ。
 不吉な予感がしないわけでもない。
 しかし、罠が仕掛けてあろうとも、こんな舞台上で決定打となるような罠を仕掛けることはできないはず。
 ならば、相手が本気を出す前に決めるのみ。
 私はそう思い、相手との距離をつめる。
 一瞬の跳躍の元、相手の背後に着地し……
 次の瞬間私のは床板を踏み抜いていた。
 驚きのあまり声が出ない。
 あわてて、その場から飛びのこうとするものの、間に合わない。
 助けを求めるかの様に伸ばした手はむなしく相手の包帯を掠め取るだけだ。
 離脱の努力も虚しく。気付いた時には私の下半身は舞台の中へと埋まっていた。
 なぜだ。
 頭の中に疑問が生まれる。
 確かに先ほどからの闘いによって舞台は傷んでいたはずだ。
 慎重に探れば、深く損傷している部分を探ることもできただろう。
 だが、私との戦闘中はそれを確認する暇など無かったはずだ。
 ならば、相手はそれをいつ確認をしたのか… それに気付いた時私は愕然とした。
 くそっ、すべて計算通りと言う事か。
 相手が何時、舞台の傷んでいる位置を確認したのか。
 決まっている。消去法をすれば簡単に分かるだろう。
 奴は、試合が始まる直前に確認していたのだ。
 おそらく、それは私がナギのことについて考えていた時に密かに調べていたのだろう。
 認めたくない。認めたくないが完敗だった。
 相手はこんな惨めな私に向かってどういう言葉を放つだろうか。
 嘲笑だろうか。それとも、労りだろうか。
 まだ、前者の方が救われる。
 静かに私は勝者の言葉を待つ。
 しかし、返ってきた言葉はギブアップの宣言だった。
 これ以上の侮辱を受けたことはかつてあっただろうか。
 あのナギですら、私をここまでコケにしたことはない。
 奥村健介、許さんぞ! 貴様をいつか惨めに殺してやる! 去り行く後姿に、私はこの借りをいつか返すことを誓った。

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