それはひどく懐かしい夢だった。
日本ではない場所、人々が行きかう公園の中で一人の子供が泣いている。
周りの大人たちは心配そうに子供を覗き込むのだが、皆が皆、すぐに困り果てた顔へと変わっていく。
それは、そうだろう。
なにせ、どんなに話しかけたとしても、子供から返って来るのは彼らの母国語とは違う拙い日本語なのだから。
その子供は十年前の俺だ。
その時の俺はひどく心細かったのを覚えている。
周りを見渡せば知らない大人。
話しかけてくる言葉はどれも知らないものばかり。
不安で押しつぶされそうな心は、もうぺしゃんこになる寸前だった。
しかし、その時ふと一筋の光がさしたかのように言葉が聞こえてきたのだ。
「君、どうしたの」という日本語が。
その言葉がどれほど俺の心を救ってくれたことだろうか。
訳の分からない言葉の嵐の中に混じったその言葉は、ひどく俺の耳に響いていた。
言葉のするほうを見上げれば、そこにいるのは少し怖い顔をしたおじさん。
いや、そのおじさんにしては、精一杯優しい顔をしようとしていたのだろう。
今思い出してみると、そのおじさんが顔を押さえていたのは、なれない筋肉を動かして痙攣しそうな頬を必死になってとどめようとしていただろうから。
あれは彼なりの不器用な笑顔だったのだ。
そう、それは俺の中の思い出。
幼少のころに出会ったやさしいおじさんとの思い出……
となるはずだった。
ここで終われば。
この時、俺は初めて人生というものは厳しいものなのだと自覚したかもしれない。
健介君は一般生徒です。異伝『健介君はSSWです。』
そのおじさん、名前はロイドというのだが、彼のとった行動は実に迅速だった。
泣いている俺から名前を聞き出すと、すぐに警察へ連絡をいれ、親を探す手配をし、親が来るまで一緒にいるとすぐ近くのカフェへと連れて行ってくれたのだ。
白い机のならんだオープンテラス。そこは通りに面していて、俺の泣いていた場所がよく見える。
なるほど、どうやら、ここから俺を見かけて声をかけてくれたらしい。
おじさんは、はぐれまいと彼の服の裾をつかむ俺の手をやさしくはがすと、その中の一つの机に座るように言い、俺は従う。
指定されたのは、テラスの中でも隅っこにある席。
そこに、おじさんの友達なのか、男の人が何人もいた。
彼らは一枚の地図を前になんだか難しい顔をしている。
しかし、妙なのは、その地図の上に将棋の駒が乗っていることだ。
対局をしているわけではないのは、駒の数を見れば分かる。
そうだきっとこれは……
今思えば、どうしてそんなことを思ってしまったのだろう。
これが、俺の人生において、もっとも後悔している出来事である。
幼かった俺は、それを見てこう思ってしまったのだ。
みんなで詰将棋をして遊んでいるものなんだと。地図はほかに台紙がないから使っているのだろうと。
そして、そう思った時が人生を踏み外した瞬間であった。
当時、詰将棋が好きでよくやっていた俺は、その駒の配置が過去にやったことのある手の一つと同じであることに気づいてしまった。
しかも不運だったことに当時、本当にガキだった俺は、そのことを自慢したくてやまなかったのである。
「おじさん。こっちの手駒は?」
自重を知らない口はすぐに動いていた。そう言った直後、周りの大人が少しギョッとしたのには気づいたが、早く自慢したくてうずうずしていた俺は気にしない。
大人たちは何やら話し合うが、やがておじさんが代表して俺に駒を渡してくれる。
彼は香車、銀、金をそれぞれだしながら「スナイパー、セイバー、ファイター」と言っていた。
だが、当時の俺は彼の言った言葉を何を勘違いしたのか、それぞれの駒の外国語読みだと思ったのである。
そして、俺だけは詰将棋だと思っているある作戦の会議が再開されたのだ。
一番最初の駒の並びは簡単に詰めてしまった。
大人たちはそれを見て何やらざわついているのが分かる。言葉は分からなかったが、彼らはいたく感心しているようだった。
そのことに気をよくした俺は、よせばいいのにより難易度の高い詰め将棋も見せてしまったのだ。
駒の並びは先ほどと似ているが、少し離れたところに相手が飛車を持っていることが違っていた。
だが、それをおいた瞬間、おじさん達の顔色が変わったのだ。
その変化に気づき、俺はきょとんとするが、その理由が分からず、そのまま詰め将棋を続けたのだ。
最後までやり終えると、おじさんがこちらをじっと見ているのが分かった。
首をかしげる俺。正直な話、そのときのおじさんの目は血走っていて少し怖かった。
「なあ、君」
しばらく、おじさんは俺を見つめた後、口を開く。
「これは、誰からならったんだ?」
おじさんの言うこれとは詰将棋のことだろうとあたりをつけ、お父さんだと俺は素直に答えた。
「お父さんの職業は?」
「え、えっと警察官だけど……」
俺が、そう答えると、おじさん達はまた何やら話し始める。
このとき、俺は知らなかった。
おじさんたちが、あんなことについて話していることなど。
「君、よければ、たまにこんな感じで、自分達に意見をくれないか」
おじさんの何気ない一言。俺はそれに対してなにも考えず、うんと答えた。
そして、これが俺の不幸の始まりである。
そのときのことを私は今でも思い出す。
初めに見かけたとき、その子は泣いていた。
たまに見かける普通の迷子の子供。周りの大人が困った顔をしているのは、子供が異国の者だったからだろう。
誰もが何とかしようというのは分かるのだが、誰もが何も出来ない。
子供はただ泣き続けている。
私はその子がかわいそうになり、その子の母国語、日本語で話しかけてあげた。
子供はその瞬間、少しほっとした顔で私を見上げる。
私は精一杯の笑顔を浮かべながら、落ち着かせるように頭を撫でた。
これが、私とその少年との出会い。
だが、私は恥ずかしいことに、そのときこの少年のオーラを見逃していたのだ。
「おじさん。こっちの手駒は?」
少年の才覚に気付いたのは彼が発したその言葉だった。
そのとき、わたし達はとある制圧計画をするために、東洋のチェスを布陣に見立てて、作戦会議を行っていた。
わたし達は何事かと顔を見合わせるのだが、その内仲間の内一人が笑いながら言う。
「ほう、この坊主はわかんのかね?」
面白そうに言うその一言に別の一人が言葉を返す。
「いやいや、少なくともお前よりは分かるんじゃねえか?」
次第にその二人以外も軽口を叩き始めるのだが、そのとき私はふと思った。
少年に少し意見を聞いてみたらどうだろうかと。
正直言って、制圧計画は難航していた。相手の守りは堅牢であり、こちらにも被害が出る可能性があったからだ。
負傷することを恐れては居ない。だが、無駄に損害をこうむるのは愚の骨頂だ。
少しでも損害を少なくするためにはどうしたらよいのだろうかと、考えてもよいモノが浮かばず、顔を合わせては意見が割れていたのだ。
そういう意味で、少年の提案は期待はしていないが、何かのヒントになるのではないかと思っていた。
しかし、次の瞬間、私たちは言葉をなくした。
少年の立てた計画があまりにも非が無かったからだ。
だが、少年の動きは止まらない。
彼は何を思ったのか、敵の配置を元に戻し始めた。
違うのは一つだけ。とある場所に新たな敵兵が配置されていたことだ。
これは!
青天の霹靂だった。
そこは、見渡しのいい丘の上。隠れるところは何処にもあらず、伏兵を置くには余り適していない。
だが……
もし、そこに伏兵が居たら、どれほどこちらに被害があるのかは計り知れない。
私たちは、見落としていた。
そこは、姿を隠せるような壁はないが、隠れようと思えば、隠れられないこともない場所であることを。
少年は、さらにそのときの対応の仕方を示していく。
「なあ、君」
私は恐る恐る口を開いた。「これは、誰からならったんだ」と。
知りたかった。こんなにも幼い少年が、どこでこれほどの知略をつけたのかを。
私の言葉に少年はどもりながらも父親からだと答える。
その少年の父親が何者かが気になり聞いてみると、どうやら警察官らしい。
だが、恐らく普通の警官ではないだろう。少年の才覚を別にしても、これほどのことを指導できるのだ。
特殊部隊の指揮官か、それとも……
「おい、隊長。
こいつ、うちに引き込めないっすかね」
私がそんなことを考えていると、仲間の一人が言葉をかけてきた。
その言葉に私は「このような小さな子供を関らせる訳にはいかない」と反対しようとした。
だが、できなかった。なぜなら私自身も、この少年の才覚が欲しいと思ってしまったからだ。
「君、よければ、たまにこんな感じで、自分達に意見をくれないか」
気付いた時には私の口からはそんな言葉がでていた。