プロローグ

 カシャカシャカシャカシャ
 とある大学の近くにあるアパート。住人のほとんどが学生であるその建物の一室には一人の男がせわしなく手を動かしていた。中肉中背に普通の顔立ち。特徴といえば眼鏡をかけているくらいなのだが、彼はそこまで目が悪いというわけではない。眼鏡の度数事態は低く、せいぜいコンマ二程度の修正をする程度だ。
 今、彼の手には大量のテレホンカード程度の大きさの紙の束が握られている。裏側に『MAGIC the Gathering』と印刷されたそれらはトレーディングカードゲームと呼ばれる類のモノだった。
 彼が手を動かすごとに、カードとカードが擦れてカシャリという音を立てる。何かを探しているのか、表の絵柄を一瞥しては横にずらすという行為を彼は繰り返していた。そのため、カシャリという単発の音が重なり合い、部屋の中に絶え間なく擦れる音が響く。人によっては特に耳障りであろうその音だが、彼、川岸良也はその音が好きだった。
 不意に何かを見つけたのか、彼の手が不意に止まる。それにより、部屋の中に響いていたカシャリと言う音はなくなり、部屋の中は無音によって満たされた。
「いや、ないだろう」
 そのカードをしばらく見た後、彼は苦笑いと共に独り言を呟く。他者から見て何があって何がないのかよく分からないが、ここで彼の行動を解説しておくと、彼は今自分のデッキ、トレーディングカードゲームで遊ぶための山札を作っているのであった。山札の構想自体は出来て居おらず、何を中心に添えるかは決まっていない。今はデッキの各となるカードを探している最中だったのだ。
 彼が今見ているのは『刈り取りの王』という名前のカード。不細工なエイリアンっぽい何かが書かれたカードを見て『ない』と言ったのは、そのカードをメインにすえるのはどうだろうかという意味だった。
 ヴィイイ、ヴィイイ
 そのカードを見送り、再びカードを探し始める彼の耳に、不意に硬いものが振動する音が聞こえた。彼の持っている携帯電話が震える音である。着信音は一切しない。それは彼の携帯電話がマナーモードであるからなのだが、そのマナーモードを彼は、携帯電話を買った日から切った覚えがなかった。わざわざ携帯をいじるのが面倒であったし、なによりもマナーモードの状態でも着信がよく分かったからだ。
 突然響いたその音に、彼は一瞬だけ顔を上げるが、それを無視してカードをまたいじり始めた。友達からのメールだと考えたからだ。通話と違ってメール機能のすばらしいところは、いつでも送られた情報が確かめられるところだと彼は思っている。今の作業がすんでからでも問題はないだろうと彼は結論を下した。
 だが、その作業も振動音が四回目に突入したところでピタリと止まった。
 彼の使っている携帯電話の場合、メールを受信したときには三回の振動で止まる。四回目があるということは、それがメールではないということだ。
 顔をしかめると共に立ち上がり、音がするほうへと歩いてく。パソコンの乗った勉強机のキーボードの横では黒い直方体が自己主張するかのように緑色の光を発しながら震えていた。
 折りたたみ式のその表面の液晶からには『自宅』といった文字が浮かんでいる。とは言ってもこのアパートからかかってきているわけではない。それは彼の実家からの電話を意味していた。ただ単に、このアパートに下宿する前に番号を登録したために、名称がそうなっているだけだ。
 通話のボタンを押すと共に、耳に当てるがその瞬間に緊迫した声が彼の耳に大音量でたたきつけられた。
「今、何処にいるの?」
 電話の声は彼の母親の者だった。耳の中がキーンとするのに顔をしかめながらも、彼は今、下宿先のアパートに居ることを伝えた。その言葉に彼の母親は叫ぶかのように「すぐに逃げなさい」と返した。
 いきなり何も説明されないままに逃げなさいと言われても人は困惑するものだ。平和ボケした日本人なら特にそうだろう。まして、何処に逃げればいいのかも分からない。
 興奮状態の母親を落ち着かせるように、亮也は穏やかな声でその理由を問い立てた。
「あんたのアパートの近くで不発弾が発見されたのよ!」
 だが、次に彼の耳に聞こえたのは予想の上を行く答えだった。それと共に彼の頭に浮かぶのは、つい二時間前に鳴らされたしつこいチャイムの音だった。朝の早く、とはいっても八時過ぎ程度に玄関のチャイムが何度も鳴らされていた。その時は眠たくて、無視していたのだが、今にして思えば、あれは非難を促すためのものだったのだろう。
 しかし、アパートの近くで不発弾がみつかったと言われても、彼は別に慌てるような素振りを見せなかった。戦争が終わって六十年。これまで爆発しなかったものが、今このときになって爆発するとは思えなかったからだ。
 しかし、母親に非難を促された手前、一応しておくかと彼は外にする準備をし始める。だが、部屋の中心に目を移したところで彼はすぐにちょっとした絶望感に襲われた。彼の目に映るのはカードの散乱した部屋。思い出すまでもなく、彼はそれらを弄っていた途中であった。後から片付ければいいという免罪符のもと、好き勝手にやっていた付けだ。
 財布を置いた場所など覚えていない。ということはこれらを片付けるしかないのだろう。いっそのこと非難するのをやめるかと言う結論に半ば本気で至るのだが、その瞬間彼の視界は真っ白に埋め尽くされる。反射的に彼は目を瞑るのだがその瞬間、彼は瞼の後ろに火花を見た気がした。
 突然の光に目がくらむこと数秒、目を開けた彼が見たのは一部が大きく変わった自分の部屋であった。部屋の家具類には全く持って異常はない。勉強机の上のパソコンも一年以上電源をいれていないMDコンポも変わりはない。だが、
「なん…で?」
 思わず彼の口から言葉が漏れた。先ほどまで自分の触っていたカードが手品のように消えうせていたのだから当たり前だ。代わりにおいてあるのは何十冊という古びた本。無論見覚えはなく、彼は助けを求めるかのように視線をさまよわせ、そして言葉を失った。
 彼が視線を向けた先は窓の外、そこは住宅街の道路で、たまにネコが居座っている場所のはずだ。それが今やアスファルトのあのじも見えず、うっそうとした森が広がっている。
 何かの間違いだと思い、目を擦るが幻は消えようとはしない。慌てて外に出てみるが、幻は幻になってはくれなかった。
 変わりに突きつけられるのは、これが現実だという事実。鼻を刺すむせ返すような緑の香りや、肌で感じる湿度がそのことを伝えていた。
 ガサリ
 そこで、彼の耳に何かが動くような音が聞こえた。慌てて視線をそちらに向けるが、音を立てたものの姿を確認することは出来ない。音のした方に歩いていけば、何か分かるかも知れないが、その勇気は彼には無く、逆に恐怖ですぐに部屋の中へと引き返した。
 部屋の中で布団に包まること数分。この窮地を脱しようとあれこれ考えるものの、何一つとしていい考えは浮かばなかった。
 外部に助けを求めようにも、頼みの綱の携帯電話はずっと圏外を示している。うすうすだが、ここは日本じゃないことを彼は理解し始めていた。
 ぐうと腹の虫が唸り声を上げる。そういえば、カードを弄っていて、朝から何も食べていなかったことを彼は思い出した。
 とそこで、待てよと彼は頭の中で考える。今まで外の変化のインパクトが強すぎて、思考の外へと置いていたが、あの光と共に変わったのは、外だけではないことを彼はやっと思い出したのだ。
 部屋の中に詰まれている何十冊という洋書に彼は目を向ける。彼の宝物とも言うべきカードたちが姿を変えたそれらには果たして何が書かれてあるのだろうか。
 もしかしたら帰り方が変えるかもしれないと、藁にもすがる思いでそのページをめくり始める。どういう奇跡か、外見にも不釣合いに中の文字は日本語であった。これなら読めると意気込み、目次に目を通すが、その瞬間めまいに襲われた。
 体調が悪くなったわけではない。多分に精神的なものであろう。彼以外の誰が読んだとしても、めまいを覚えていたかも知れない。彼の読み始めた文章。そこには達筆な筆遣いでこう書かれていたのだから。
『魔法についての基礎知識』
 これは何かの冗談なのだろうかと彼は思わず呟く。その他にも『マナの取りだし方』や『呪文を唱える上での注意』などファンタジーな言葉が並んでいる。そんな馬鹿なと彼の理性が思わず否定するが、心の何処かでは妙に何かを納得していた。魔化不思議な現象はもう起こっている。これらの現象が魔法せいにしてしまうことが一番しっくりと来るだろう。
 他の本の内容もこういったものだろうかと別の一冊を手にとって目を通す。その本の目次に書いてあるのは『ショック』『火葬』『炎の投げやり』といった言葉。
「まさか!」
 それを見た瞬間、彼の頭の中にある仮説が広がっていく。また別の一冊に目を通し、その仮説に間違いないかどうかの確認を行った。『否認』『霊魂放逐』『取り消し』開いた本にはそんな言葉が並んでいた。
「ありえない」
 そう口で呟くもモノ、彼はこれらの本の正体に検討がついていた。それはどんな奇跡なのだろう。ここにあるのは間違いなく彼の持っていたカードたちだ。『ショック』も『火葬』も『炎の投げやり』もそれらはすべて『Magic the gathering』に存在するスペルの名称だった。それらがすべて本へと置き換わっている。この魔導書は本物だろうかと疑問が浮かぶが、それこそ愚問だろうと彼は考えた。ここまで摩訶不思議な登場の仕方をした本だ。魔導書でない可能性の方が怪しい。
 そして、これらの本が本物の魔導書であるかも知れない以上、帰り方が書いてあるかもしれないと、彼の心には希望が浮かんでいた。

inserted by FC2 system