第一話 兆し、されど今は何気ない日常

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 ふと目が覚めた。
 枕もとの時計を見ると午前六時。まだ、予定の時刻までは一時間ある。
 このまま二度寝をしても良いのだが、今日はなぜかそんな気にもなれず、素直に起き上がることにする。
 先程まで夢を見ていた気がするのだが、内容は覚えていない。
 まあ、夢とはえてしてそんなものであろうと考え、俺は立ちあがった。
 駅から三十分の場所にある築二十年の鉄筋コンクリートの六階建てのマンション。その中の三LDKが俺の自宅だ。
 玄関の表札には二つの名前が並んでいる。
―雪村 修平―
―雪村 正義―
 一つ目は親父、二つ目は俺のものだ。
 母親はいない。
 母さんは俺が二歳の時に死んでしまった。交通事故だったらしい。
 幼かったこともあり、俺は母親のことをまったく覚えていない。
 親父いわく。とても情熱的な人だったらしい。
 母親のことを俺に知ってほしいと親父は思ったのか、親父はよく母さんのことを話してくれた。
 しかし、話が盛り上がってくると夜の営みのことまで話しだすのは子供心に教育に悪いのではないかと思った。
 そんな世間と若干、もとい全開でずれた親父は二ヶ月前、今年の四月からめでたく海外出張が決まった。今は中国でパンダと楽しく戯れているだろう。
 つまり、俺は二ヶ月前から一人暮らしなわけだ。
 よく、男の一人暮らしは出来あいのものばかりで済ませようとするので栄養が偏るという話を聞くが、俺に限ってはそれに当てはまらなかった。
 母親を幼い時に亡くしたために、たいていの家事なら出来てしまうからだ。
 近所のおばちゃん達からは嫁に来てもらいたい男ナンバーワンの地位を確立している。
 その称号が時折胸に刺さるのはここだけの秘密だ。男心は複雑なのである。

「いってきます」と誰も返事を知りながら言うと玄関の鍵を閉め学校へと向かう。
 俺が通っているのはここから歩いて三十分程の所にある私立名成高校。全校生徒六百名あまりのその普通の高校の二年生をやっている。
 生徒の登校スタイルはだいたい歩き。申請を出せば自転車通学も認められているのだが、学校前に一キロにも渡る、通称地獄坂があるためほとんどの生徒がそんなものを出してはいない。もちろん俺もその一人だ。
 校内にあるほとんど使われていない駐輪場は学校設計者の趣味だろうというのが学校関係者の総意だ。
 まだ、昼間に比べれば涼しい時間帯の通学路を学校へと歩く。あと二週間もすれば、七月に入り本格的な夏が到来し、この時間帯も蒸し暑くなることになるだろう。
 時折吹く風に目を細める。梅雨の湿っぽさが薄れ行く風が気持ち良くも季節が流れていることを感じさせ、そのことがなぜかとても悲しく思えた。
 らしくない。何朝から黄昏てるんだ? まだ、時の流れに哀愁を感じるような年でもないと言うのに。お前は五十過ぎのおっさんか? 五月も過ぎたのにうつ病とは笑えないだろう。せっかくの朝の空気が台無しだである。俺は変な思考を振り払うためによりいっそう足に力をこめ、アスファルトの地面を蹴った。自分の鳴らす足音と時折現れる車のエンジンによって奏でられる変則的な音楽を聞きながら学校への道を進んでゆく。円筒型の旧式の赤いポストの横を通り、まだ人気の無い公園を横切り、人の住んでいない廃屋の前をすぎ、学校への道を進んでゆく。そして住宅地の角を曲がったところで俺は見知った後ろ姿を見つけた。
 つややかな黒髪を肩まで伸ばしたあの姿は間違いなく…
「おーい。澄香」
 俺が呼びかけると彼女はふり返り、こちらの姿を認めると「おはよう。正くん」と笑顔で挨拶をした。
 何時からだろう。そのまぶしい笑顔にドキッとするようになったのは。少し頬が厚くなるのを感じるが、俺はそれをご魔化すように彼女へと駆けよった。
 彼女、桐谷澄香と俺は世に言う幼馴染みである。
 昔は家が近所ということもあり良く遊んだものだが、一時期、思春期を迎える頃には疎遠になったこともあった。もっとも中学生の高学年の頃にはほとんど昔のように戻ったのであるが、思えばあの頃は女の子と遊ぶことがひどく恥ずかしかったんだろう。
 まあ、今となってはいい思い出である。とはいってもこのように一緒に話しながら登校するのは未だに少し気恥ずかしかったりするのだが。その辺のことを彼女のほうはどう思っているのだろうか。気になりはするが聞いたことは未だにない。
 横目でちらりと彼女の方を見ては見るがそこには笑顔で話をする彼女が映るだけである。
 目下の話題は今度友達の家へと泊まりがけで遊びに行くこと。彼女と一番仲のいいクラスメイトの中村智子の家に行くらしい。
「でね、正くん。
 その次の日にケーキ作ることになったの」
「ほぅ」
「初めて作るけど、うまく出来たら正くんにもあげるね」
「楽しみにしている」
 澄香が話し掛け、俺が答えるというほぼ一方的にも見えるそれが俺達の会話の形式。俺は別に口べたなわけではないが、澄香と話す時はなぜか聞き手に回ってしまう。
「あ、正くん今不安に思ったでしょう」
 まあ、何も言わなくても長年の付き合いで、こちらの考えを彼女が分かってしまうのが原因かもしれない。
「いや、そんなことはない。
 ただ胃薬を用意しないといけないと思っただけだ」
「ふん、いーもん。
 どうせ私は正くんみたいに料理が上手じゃありませんよ」
 俺の物言いがお気に召さなかったようだ。
 姫はへそを曲げてしまわれた。
 俺は機嫌を直そうと思案するが、
「おはよぅっ」
「ふごっ」
 次の瞬間、なぜか俺は元気な挨拶を聞きながら地面にキスをした。
 顔面の痛みに顔をしかめながら顔をあげる。
 視界に入ってきた澄香は唖然とした表情でこちらを見ていた。いきなり話していた人間が倒れたのだ。驚くのも当然であろう。
 大丈夫だ、澄香。俺のほうがもっと驚いている。そして、今日は白なのか。いや、そうじゃないだろう俺。ひょっとしなくても混乱しているのか、男の楽園に目が行ってしまう。いや、断じてスケベ心ではない。きっと。
とある原因により週に一回程度引き起こされる現象に俺は未だに慣れることはないらしい。もっとも、慣れたくはないのだが。
「貴様は、少しはモノを考えて動けんのか」
 うつぶせのまま顔だけ振りかえると俺はとそのある原因に怒声を浴びせた。
 そのとある原因、相馬薫は『やばいやっちまった』という顔をしながらこちらを見ている。
―薫―
 男性にも女性にも使われるこの名前は文字だけ見ても性別が判断できずややこしいのだが、こいつの場合はもっとややこしい。
 なぜなら、彼の外見は中性的で男にも女にも見えるからだ。今着こんでいる学生服がなければはっきり言ってどちらかが判別できない。
 まあ、もっとも性格のほうは外見に反し、とても男らしいのだが。
 ついでに言うと馬鹿でもある。
「貴様は力加減というものをいいかげんに知れ!」
 俺は立ちあがりながらさらに一言いう。
 今のこいつの行動を説明すると前方に見知った姿、俺達を見つけて全力疾走で追いかけ挨拶代わりに肩を叩いたというところか。
 減速せずに。
「悪い、マサ。
 わざとじゃないんだ。わざとじゃ」
 それは、理解している。
 こいつは基本的にはいい奴だし、こんなことを故意ではやらないだろう。
 だがな、
「たとえ故意じゃないにしろ、週に一回程の周期でどつき倒される俺の気持ちになってみろ」
「だから悪かったって」
「謝る前に直しやがれ。はぁ、まあいいさ。
 それより相方どうしたんだ」
 何度言っても直らないのはこれまでの経験上分かりきっている。
 そんなことよりも、いつも薫の側にいるはずの姿が見えないことに疑問を持ち俺は話を変える。
「私ならここです」
「うわっ」
 その声は背後から聞こえた。
 予期せぬ方向から声をかけられ、俺は思わず情けない声をあげる。
 慌ててふり返ればそこには長い髪を頭の高いところでポニーテールにした少女が立っている。
「雪村先輩、そんな風に驚かれるのは心外です」
 そして、彼女はよく見なければ変化に気付かないほど顔をしかめ、少しだけ困った表情で俺に言った。
 この一見無表情な彼女の名前は六道楓。一つ下の後輩で、薫の彼女をやっている。
「背後にいきなり立たれたら誰でも驚くと思うが」
「ですが、気配は消してませんでしたよ」
「いや、常人には気配なんぞ分からんだろ」
 彼女は少々思考が普通の人とずれていることがあり、よくも悪くも似たもの夫婦ということか。
「大丈夫です。
 雪村先輩は常人ではなく変態ですから」
「誰が変態か!」
「ああ、変質者ですたね」
「違う!」
 性格は見ての通りどこか人を食った所がある。だが、不快感を感じないのは限度と相手をわきまえているからであろう。
「ですが…」
「なんだよ」
「変人ではあります」
「ああ、それはいえるかも」
 楓の言葉に同意したのは薫。もちろん俺は二人に猛烈な抗議をする。
「誰が変人か! 」
「マサ」
「雪村先輩」
 間髪いれず、薫と楓は同じ答えをだす。
「おまえら…」
「だったら、一番付き合いの長い澄香ちゃんに聞いてみようか」
 そう言って、薫は澄香に話を振る。
 急に話を振られた澄香の方は少し戸惑いながらも、やがて口を開いた。
「うん、言いづらいけど…
 正くんは変人だと思う…」
 前置き通り、彼女は言いづらそうに答えを告げる。
 澄香。お前だけは信じていたのに…
「お、落ち込まないでよ、正くん。
 ほ、ほら、正くんは確かに変人だけど、ちゃんと社会に適合しているから」
 澄香はフォローをしているつもりなのだろう。しかし、もうちょっと別の言い方はないのか。彼女の一言は確実に俺の心をえぐっている。
「ああ、ま、正くんどうしたの?
 いきなり地に膝をついて」
 お前のせいだ。澄香。
「言葉って残酷ね」
「大丈夫。マサの奴はきっと這いあがってくるさ」
 そこの二人。貴様らがそもそもの原因だろう。
 まるで、他人事の様に話す二人にむかって、俺はキッと睨みつける。
「ああ、飢えた野獣がこちらを睨んでいる」
 楓、そういう言葉はせめてもう少し表情を変えてから言え。
「なにっ!
楓、此処は逃げるぞ」
薫、貴様も友達甲斐のない奴だな。
最後に一言彼らは言い残すとそのまま学校へと走り去っていった。
「貴様ら、待ちやがれ」
 そのスピードは凄まじい。俺の叫びが上がる頃にはもう二人は視界から消えていた。

 


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