第八章 戦う意味

 まぶしい日の光によって一茶は目を覚ました。
 中学の頃から使っている目覚まし時計を見れば午前十時を丁度すぎたところだ。
 一コマ目の講義は当の昔に始まっている時間だが今日は休日だ。慌てる必要など何処にもない。寝すぎたためか逆に眠たく大きく出たあくびをすんでのところで噛み殺すと、彼はそのままベッドより這い出た。特にやることもなくテレビの電源をつける。これといって見ようと思う番組があるわけでもなく、ただチャンネルを回していく。
 あの日から二週間も立っているが一茶は未だ部活に行っていなかった。
 その間一茶は世間一般の大学生活をただ送っている。自分が求めていた生活はそれだったはずなのに、なぜかそれがひどく味気のないように感じるのはなぜだろうか。
 いや、一茶には答えが分かっていた。
 別に味気ないのではないのだ。ただ後ろめたいだけなのだと。自分がこんな平凡な生活を送っているのに、彼の知り合いはこの平和を守ろうと悪として振舞っている。誰にも感謝されずにむしろ憎まれている。
 後ろめたいのだ。そのことを知っているのに何もしていない自分が。
『もしも、最悪な未来が来るのが分かっていて君はそれを黙ってみてられるか?』
 それはただの設定上の言葉だった。しかし、人に言わされた言葉は、何の感情も伴わずにいった言葉はひどく一茶の胸に突き刺さっていた。
 彼は自分に問う。もしも最悪な未来が来るのが分かっていて俺はそれを黙っていられるかと。
 答えは否だった。しかし実際には来るのは『最悪な未来』ではなく『悪い未来』である。
 不幸になる人は少し増えるかもしれないが、最悪な未来は待っているわけではない。
「大丈夫。俺がいなくても先輩達が何とかするよ」
 自己弁解のために心の中で何度も呟いていた言葉をあえて口にした。後ろめたさは少しだけ減った。それは一茶にとって平常心を保つための魔法の言葉なのかもしれない。
 しかし…
「…社員の中には悪魔がとうわ言のように呟く人もいます」
 魔法の言葉はテレビから聞こえたその一言によって一気に力を失った。
 まて、いまこのニュースキャスターはなんと言った?
 適当にチャンネルを回しているうちに引っかかる言葉を聞き、彼はテレビに噛り付いた。
 テレビに映っているのはこの街の近くにある原子力発電所だった。なんども報道されている放送を聴き、彼は大体の状況を理解する。
 この原子力発電所の一号機で先日タービンの羽が折れる事故があったらしい。そのことから以前から地元でくすぶっていた、原子力発電所反対派の人間が全ての原子炉を止めるよう原子力発電所の前でデモを行っていたらしいのだが、その中の誰かが発電所に忍び込み、社員に暴行を加え始めたということだ。
 しかし大事なのはその次の言葉だった。
「暴行はよほど激しいものだったのか、逃げ出した社員の中には悪魔がとうわ言のように呟くものもいます」
 まさかという言葉が一茶の中をめぐる。
「悪意に染まった力は当然その悪意をもたれた人間の方へと流れていく」
 それは工藤から聞かされた言葉である。
 一茶は考える。もし発電所を乗っ取ったのが反対派の人間でなければどうだろうと。もしかしたら反対派の人間の原子力発電所を憎む悪意に染まった力が悪魔を具現化させ発電所で暴れているのではないかと。
 少し飛躍しすぎるようにも感じるが、一茶の中ではその考えがひどく現実味を帯びてくる。
「まさか、俺が何もしなかったから?」
 それと同時に押し寄せてくるのは後悔の念だ。
 二週間前に工藤から聞いた言葉にはこういうものもあったはずだ。
「装置の数が足りない」と。
 活動に参加していたのは六人。装置の数が足りず、それを運用するのがそれでギリギリだったとすると、一茶の抜けた穴はどうやって埋めていたのだ。
 いてもたってもいられず。一茶は青い顔で部室へと向かった。

 一茶が部室に入ったとき、彼はすでに衣装に着替えていた。大学まで走っていくより、変身して転移魔術を使ったほうが早いと途中で気付いたためだ。部室の中には紡を中心に恭子以外の仲間が集まっている。彼らは最初難しい顔をして話し合っていたが、一茶が現れると話を途中できり、彼のほうに視線を向けた。
「ひょ、ひょっとして発電所のは」
 慌てているせいで言葉がどもるが笑うものはいない。
「落ち着け一茶」
 そこへ紡の一喝が入った。それによって、一茶は落ち着く。
「…すみません。部長、さっきテレビで見たんですが、発電所が…
あれって、ひょっとして」
「一茶の考えている通りだ。今、発電所に悪魔が出現している」
 予想していた言葉だったが、それに一茶は頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
 自分のせいだと心は締め付けられ、走ったせいで赤かった顔からは血の気がうせ一気に青くなる。仮面のせいでその変化は分からなかったが、雰囲気で察したのか紡は「おまえのせいじゃない」と彼をなぐさめた。
「でもっ」
「もう一度言う。お前のせいではない」
 一茶は納得いかなかったが紡に強い口調で言われ、押し黙った。
 それを確認してか紡は満足そうに頷く。
「さて、それよりも発電所の件についてもう一度話し合おうか。
 現在の一番の問題は対処できる陰陽課の数が足りないことだろう」
 少ないも何もそれどころでない。動かせる人数はせいぜい十人ほどであろう。
 ほとんどの職員は部員達によって病院送りにされてしまったし、無事なもの達も彼らエデンの戦士達を警戒して詰め所から動けないであろうことはすぐに予想できる。
 それに紡の掴んでいる情報では、今回の事件は過去に見ないほど大きなものであった。
 この規模であったら最低でも三十人程度はほしいはずである。
「故に、我々の取れる行動は二つ。
 一つ、陰陽課に停戦を申し込む。
 二つ、発電所に行って事件を解決する」
 一つ目は陰陽課に彼らに対する警戒を解いてもらい、発電所に全力であたってもらうためのものだ。しかし、停戦を申し込んだとしてもそう信じてもらえるとは思わない。
「やはり、二番目ね…」
 みんなの意見をまとめたものを工藤は言った。すでに修理が完了したのか、工藤は紅い少女の人形に入っている。
「むこうで陰陽課と衝突するかもしれないが、それしかないだろう」
 そう言い、紡は視線をめぐらした。その視線に全員いっせいに頷く。
 一茶も力強く頷いた。決意は決まった。もう語るべき言葉は無い。後は出撃するのみだ。
 そして彼らはいっせいに立ち上がり出撃しようとするが、
「す、すみません。今、テレビで見たんですけど」
 それはあわてて部室に駆け込んできた恭子にすぐに止められた。
「え、え〜と、皆さんどうしたんですか?」
 なんとも出鼻をくじかれた出撃である。

 包囲戦の条件は相手より多い戦力を持つことが絶対条件である。
 その意味で陰陽課の取った戦法は愚作であった。
 発生した悪魔の数は三十以上。それに対する彼らの戦力は一般魔術師の応援も含め十二人。
 たったそれだけの人数で発電所より悪魔を出さないように戦おうとしているのである。
 幸い悪魔は炉心から離れ、また出入り口より遠いために何とかなっているが、甚大な被害が出るのは時間の問題であろう。
 その包囲している、たった十二人で巨大な発電所を囲んでいるとは言いがたいが、陰陽課の隙を突いて、一茶たちは発電所内部に潜入していた。
「エキスパートの陰陽課より、その周りを囲っていた警察官の方が厄介だったなんて皮肉だな」
 苦笑しながらも大牙は言った。確かにこの中に潜入するのに、野次馬や他の反対派の人間を抑える警察官の隙を突くほうが彼らにとって難しかったのは皮肉以外の何物でもない。
「でも、よかったのか?」
 内部に入ってから別行動になり、一茶は大牙と共に行動している。
 そういう風に聞く大牙に向かって一茶は「ええ」と答えた。
「そうか」
「もしも、最悪な未来が来るのが分かっていて、それを黙ってみていられますか?」
「なんだそれ」
「俺の決め台詞ですよ。ほら、一番最初に渡された設定に書いてあった」
「ああ、俺もなんかあったなそういうの」
「ええ、でも今度から俺、それを設定じゃなく自分の言葉として言うつもりです」
「そうか」
 それ以上大牙は何も言わなかった。一茶の覚悟が分かったのだろう。彼はただ黙って事前に渡された資料のもと、一茶の前に出て悪魔の発生ポイントへ進んでいく。
他のポイントへも彼らの仲間が行っているはずだ。
全部でポイントは十六程度。陰陽課と鉢合わせずうまくいけば、一時間程度で全ての場所を網羅できるはずだ。
「まあ、そううまくいくとは思わないけどね」
 大牙は囁くように呟く。そこには彼のこの作戦に対する懸念が表れていた。
 陰陽課の動きを予測して、彼らと鉢合わせないようにはしているものの、何事も予定外のことがある。あちらの悪魔駆除に動かせる部隊が一部隊としても、まったく鉢合わせしないなんてことは無理だろう。
 そこは諦めて彼らと鉢合わせする前に出来るだけ悪魔を駆除するしかない。
 大牙は諦めると一つの扉の前に立った。この先は職員の休息のための部屋となっているのだが、そこには彼らの駆除すべき悪魔がいるはずである。
 大牙が一茶に目配りすると、一茶はそれに対し大きく頷いた。
 それを確認すると大牙は扉を開ける。扉の先に見えるのは荒れ果て、所々壁に亀裂が入った
部屋だ。その中心には真っ黒な体に赤い目をし、蝙蝠のような翼を持った生物がいる。
「あら、これはまた絵に描いたような悪魔だね」
 大牙はお茶らけたように言うがその目は剣呑だ。
「左右から仕掛けるぞ」
 悪魔が彼らの存在を発見し叫び声を上げると大牙と一茶は左右に散り悪魔に向けて一斉に飛び掛っていった。

「あちらはうまくやってるかしら」
 一つ目のポイントをつぶし、鈴穂は誰に聞くでもなし呟いた。
 彼女の前には悪魔の死体が二つ。しかし確かに実態を持っていたはずのそれは次の瞬間には細かなチリとなって消えてしまった。存在を保ちきれずにマナに戻ったのだ。
「大丈夫だと思うよ。大牙お兄ちゃんがついている」
 それを確かめると鈴穂の呟きにかわいらしい声で答えるのは工藤だ。今は紅い少女の人形に入っているので便宜上、三人称は彼女と呼ぼう。
 彼女は振り返ると気持ち悪そうにうずくまっている銀の甲冑に目をやる。
 発電所の一室。口元を押さえて膝を付いている鎧はひどくアンバランスで笑いを誘うが、今はそんな時ではない。工藤はうずくまるそのデカブツに対しやさしく「大丈夫?」と聞いた。
返ってくるのは『ウ〜。ワタシ血がダメなんデス』というメタリックボイスだ。
その答えに工藤は大きくため息をついた。その様子はやれやれといった感じだ。
悪魔はマナから出来ているが、実体を持っているうちは生物と同じで斬れば血が出る。
悪魔がマナに還れば、血も跡形もなく消えるものなのだが、それまでは赤い液体が飛び散るのはそれを駆除する上では当たり前だろう。
「恭子お姉ちゃんって意外と繊細なんだね」
「アンナの見せらレレバ誰だっテ気分悪クなるワよ」
 そして腹を斬られれば内臓も出、頭を潰せば脳が出るのだが、恭子はやけくそのように自分の前の二人の仲間に向かって叫んだ。
 なぜなら工藤は手に持った魔力を悪魔の頭部にぶつけ半分えぐり、鈴穂は水を刃に変えて悪魔の腹を掻っ捌いたのだから。
 恭子でなくとも目前でそれを見せられれば、気持ち悪くなるのは当たり前だろう。
 むしろ中身が男の工藤はともかく、正真正銘の女であるはずの鈴穂が顔色一つ変えずにその所業を行えることの方を聞きたい。
 恭子はまだ暴れだしそうな胃と口元を押さえながら賢明に立ち上がった。

 襲ってくるのはいつもの眩暈。
 ふらふらとして倒れそうになるのを壁にもたれかけやり過ごすと一茶は顔を上げた。
「どうした。大丈夫か」
 目の前ではワイルドな顔をした大牙がこちらを見ている。
 鋭い牙が眼前で動くのは精神上あまりよろしくないのだが、相手はこちらを心配して顔を近づけているため文句は言えるはずもなく、一茶は「ええ、大丈夫です」と短く答えた。
「そうか、だが危なくなったらすぐに部室にさがれよ」
「いえ、本当に大丈夫です。ただ、見えただけですから」
 見えただけという言葉で、一茶がどういう状態だったのが理解したのだろう。大牙は「どうだった」と一茶にその内容を聞き返した。
 すでに知っているように一茶には通常と違うところがあり、未来の可能性を極たまに見ることが出来る。もっとも今一茶の身に付けている仮面の力を使えばそれをある程度自由に使えるのだが、それは最大で五秒先の未来しか見えず、それより先の未来は時たま来る眩暈とともにしか見ることができない。
「次のポイントはやめた方がいいかもしれません。
 この前あった仮面騎士が見えました」
 一茶の簡潔な言葉を聞き、大牙は顔をしかめると向かうポイントを変えることにする。
「まったく予定通りにはいかないものだね」
「人生はそんなものだってこの部活に入ったときに悟りましたよ」
 大牙の皮肉った言葉に一茶は諦めたように返す。だが、その言葉には今までと違ってこの部活に入ったことに対する誇りのようなものが込められていた。大牙はそれに気付き、楽しそうに顔を歪める。
「それよりも大牙さん急ぎましょう」
「ああ、そうだな。部長の方も心配だし、さっさと仕事を終わらせよう」
「部長のことだから心配ないと思いますけど」
「一茶、俺の心配してるのは万が一にも部長と鉢合わせてしまった陰陽課のほうだ」
 笑いを誘う一言であったが、素直に笑いきれないのは紡の人柄のせいだろうと一茶は思った。というか目をつぶれば、鼻歌を歌いながら陰陽課の職員を倒していく姿がすぐに頭の中に浮かんでしまう事実はどうだろう。
紡は他の部員達と違って、悪魔の消去には向かっていない。最大戦力である紡が動けば事態はもっと早く収束するであろうが、そうは出来ない理由があった。
 ここが発電所ということ。それも原子力発電所だということだ。
 原子力発電所は放射性物質を扱っていることから、その制御は人間が付きっ切りで監視しなければならない。しかしながら、つい十分前から制御室との連絡が取れないのだ。最悪、制御室にいた従業員はすべて死んでいると考えてもいいだろう。手綱の切れた馬が暴れだすのも時間の問題である。陰陽課もそのことを察して、制御室に職員を派遣しているが悪魔の数が多くてどうにも先に進めないでいる。ならば、転移魔術を使って制御室に乗り込めばいいじゃないかと思うだろうがそれができないから仕方がないのだ。
別に秘匿云々のことを言っているのではない。原子炉が暴走するのに比べればそんなものはたいしたことではないし、もうすでに発電所の従業員は非日常に巻き込まれているのだ。
 ただ、大量の悪魔発生のせいで魔力的磁場が脆く、転移魔術の失敗する可能性が高いのだ。
 故に陰陽課の職員は地道に通路を通って制御室に向かわなければならないのだが、陰陽課の職員の制御室への進行速度はお世辞にも速いとはいえなかった。しかし、それももっともなことだろう。彼らは発電所の作業員という足かせを嵌められていたのだから。原子炉の制御にはそれ相応の知識と経験が必要であり、素人がぱっと出てきて扱えるものではない。故に彼らは最悪の事態を想定して、無事だった発電所の作業員の中で制御室での操作ができるものを連れて行くしかなったのである。陰陽課の中に原子炉の制御ができるものがいれば一番いいのだろうが、魔術や気が使えて原子炉の知識と制御の経験がある者など普通はいない。
 もっとも、紡はその知識と経験が必要な原子炉の制御ができるらしいのだが。
 知識の仕入先はいろいろあるにしろ、何処で経験をつんだのかはまったくもって謎である。だが、そんなことはこの際関係ないだろう。使えるスキルは使っておかなければ損なだけだ。そういう理由で紡には保険のために一人、制御室へと向かってもらっているわけなのだが、本当に大丈夫だろうかと大牙はもう一度思案した。
 紡は結構器用だが、大雑把なところがよくあるのだ。
 制御室に悪魔が入り込んでいたとき、それを一掃するために制御室ごと吹き飛ばしかねないような気がしないでもない。そうなったら制御どころの話ではないだろう。
 頼みますから部長。慎重に行動してくださいと頭の中で祈りながら大牙は不吉な考えを捨てるために頭を振った。それと同時に気を引き締める。そろそろポイントに差し掛かるためである。次の角を曲がってしまえば、そこには悪魔が待ち構えているはずだ。
 仮面騎士との鉢合わせを避けるために少し遠回りをしてしまったが、それは致し方ないだろう。大牙は足を止めると一茶のほうを見た。視線で準備はいいかと聞けば、一茶は頷き返す。
「調整開始カウントワン」
 一茶は仮面の力を借りて自分の未来視の力を制御し、一秒後の世界の映像を現実の世界の上からうっすらとかぶせると、銃を構え悪魔の目の前へと飛び出していった。
 悪魔は一茶の姿を見つけるとすぐに彼を殺そうと腕を振り上げ、彼に突き進んで行った。
 一茶は突き出された鋭い爪を後方に跳び、ギリギリでかわす。ギリギリだったのは相手の腕が思ったよりも伸びたからだ。見えていても一茶の身体能力は一般の人と同じだ。
 悪魔は一茶が自分の爪を一茶が避けたのを理解すると口を大きく開ける。一茶の目にはそれに被さって口から火球を放つ一秒後の世界が見えた。
 冗談ではない。何度あるかは知らないが燃え盛る炎を建物の中でぶっ放せば間違いなく火事になるだろう。原子炉という凶悪な火薬庫にそんなことをすればどうなるかは一目瞭然だ。
 一茶は文字通り自分の体を楯にすべく腕を広げた。
 しかし、紅蓮の炎は一茶の体を焼くことはなかった。一茶の目の前には一茶を守るように立っている大牙の姿が見える。大牙は一茶の行動から何かを予感したのだろう。手を広げる一茶を守るべくその前に飛び出したのだ。人狼の瞬発力と運動能力の早さだから可能な結果だ。
 大牙は鋭い爪のついた手を振り上げるそれを悪魔に向かって振り下ろす。悪魔は大牙のそれを両手をクロスさせて止めるが、矢次に放たれた回し蹴りをもろに食らって壁へとその体を打ちつけた。大牙は壁際で伸びている悪魔の頭を掴むと力いっぱい手を握った。
 グシャッ
 まるで西瓜をつぶしたかのような音を立て、悪魔の頭は冗談のようにはじけ飛ぶ。体はビクンと痙攣するが、やがて存在が現実に耐え切れなくなったのだろう。悪魔の体は塵へと還り、後には窪んだ壁が残された。
 一茶はそれを見届けると安心し、仮面の力を解除すると大牙に「やりましたね」と声をかける。だが大牙はそれに答えない。不審に思った一茶は大牙の肩を叩こうとするが、大牙の体はそこで横にぶれ、そして倒れた。
「えっ」
 何が起こったのかわからず一茶は小さく声を上げる。
 しかし、状況を理解すると一茶は倒れている大牙に歩み寄り、その体を抱き起こす。
 大牙の胸は焦げていた。目も逸らせないような炭になって。
 一茶は何も話さない。いや、話せなかった。目の前で大牙がこのような状況になっているのは一茶を庇ったせいなのだから。何と声をかけていいのか分からず、喉から出てくる空気は音とならずに消える。
「あはは、ドジった…かな。
 何、気にするな。再生が…遅れてるだけだ。すぐに…よくなる」
 そう言う大牙の声はひどく苦しそうで、所々ヒューヒューと何かが漏れる音がした。
普通の傷だったら大牙はすでに完治していたであろう。しかし悪魔の放った炎には汚れたマナで構成されていたため、それが呪いとなり大牙の回復を妨げているのだ。
大牙は一茶に心配をかけないためにも痛みを抑えながら立ち上がろうとするのだがそれは叶わなかった。このとき大牙の肺の半分はなくなっていたので当たり前だ。心臓もわずかに機能しているものの、なぜ意識があるのかが不思議なくらいの怪我であった。
「一茶、俺は…ここで休んでく…
 他の、他の連中と…落ち合うんだ」
 自分がこのままでは役に立たないと分かっているのだろう。大牙は一茶に先に向かうように促した。
「大牙さんはどうするんですか!」
「俺は… そんなにやわじゃない」
「でも」
 一茶は渋る。
「一茶、お前は… 言ったはずだ。もしも、最悪な未来がってな。やるべきことを… やれ」
 その言葉は一茶の誓いの言葉だ。もしも、最悪な未来が来るのが分かっていて、それを黙ってみていられるかと自分に説いたとき一茶は自分で否と答えたはずだ。
 大牙を見捨てていけないが、自分のやるべきことしろと一茶は言い聞かせ、立ち上がった。
大牙はそれを見るとうれしそうに顔を歪ませる。だが、それもすぐに引きつった。
 いや、大牙だけではない。仮面の奥の一茶の顔もまた同時に引きつっていた。
 聞こえたからだ。声が。彼らエデンの戦士の中心である紡の声が。『緊急事態だ』という冷静だが、緊張を含んだ声が。
一茶が大牙を見ると、大牙もお前も聞こえたかと視線を一茶に返す。
それは空気を振動させない声だった。念話とでもいうのだろうか、頭に直接ひびくその声は『原子炉で悪魔の発生を感知した』と彼らに余り喜ばしくない知らせをつげる。
「本当なんですか!」
 思わず叫んだ声に答えは返ってこない。こちらの声は向こうに届かないらしい。
『至急、原子炉に向かってくれ』
 紡は最後にそう告げるとそれ以降彼らの頭に声が響いてくることはなかった。
「一茶… 余計に急がなくちゃ… ならなくなったな…」
「ええ、行ってきます」
 一茶はそう大牙に告げると今度こそその場を走り出した。
「まったく… 激しいね…」
 傷ついた大牙を残して。

 廊下の先にあるのは分厚い扉。その前に見慣れた三人の姿を彼はみた。
 その三人とは一茶たちとは別行動をとっていた工藤、鈴穂、恭子の三人だ。
 三人は原子炉へと続く扉の前で憎らしげにその扉を見ている。時間がないというのに彼女達は一向に中へと入ろうとしない。どうしたというのだろか。
 その中の一人、工藤は近づいてくる人物に気付き、警戒態勢を取るが、それが一茶だと気付くとすぐにそれを解いた。
「どうして中に入らないんですか」
「鍵が閉まっている。電子ロック式のものよ」
 近づいた一茶は非難するように問うと工藤から返ってきたのはそんな答え。なるほど確かにそちらに目をやれば分厚そうな扉の横にはテンキーと白黒の液晶が張り付いている。
「打ち込める数字の数は全部で八つ。
 でもこれは最大で打ち込める数であって八つ打ち込めばいいのかどうかは分からないわ。
 考えられる組み合わせは全部で十一億千百十一万千百十一通りもあるの」
 一茶がそちらを見ていると横から鈴穂は忌々しげに言った。さらにこういう鍵の形状から数回間違うと入力キーにロックがかかるであろうとも。
「部長に連絡は…」
「とったわ。そこに監視カメラがあるでしょう。あれに言葉をかければ念話で返してくれる。
 でも部長は知らないって。念のため制御室から開けないかを聞いてみたけど無理だった。
 制御室の職員はみんな話をできる状態じゃないって…」
「くっ」
 そこまで聞いたところで一茶は悔しげに呻いた。原子炉である以上、ここの扉を無理やり壊して開くわけにはいかないだろう。なにか策はないのか。一茶は深く考えるときの癖で親指をかもうとするが、それは自らのつけている仮面に邪魔される。
それはどうでもいいことだが、そんな些細なことですら腹が立ち一茶はいらついて壁を思いっきり殴った。ドンッという音が通路に響く。殴った右手が痛かったが、それは何も出来ないこの状況では逆に気持ちがよかった。
なにか、本当に手はないのか?
考えをめぐらすが、答えはそう簡単にはでやしない。いらだつ心は冷静な思考を蝕み、果てはロックを電子式にした設計者に対しての八つ当たり的な思考が頭を圧迫する。
「何度も押せればいいのに…」
 誰かが不意に呟いたその言葉は彼らの気持ちを表していた。千百十一億千百十一万千百十一回のチャンスがあれば、こんなに悩まずにすむ。一から順番にそれらを押していけばいいのだから。
 しかしそれはかなわないことだ。そんなことは鍵の設計上ありえないことだし、何よりもたとえそれだけのチャンスがあったとしても時間がない。
 この目でそれが見れれば…
 切実に願うがそれもせん無きこと。一茶が見ることが出来るのはその時点からありえる可能性のうちでもっとも高い未来の像だ。扉の番号を知らずにその数値をあてるなどという低い可能性をみることが出来るはずがない。
 だが…
「部長、この目はいくつもの未来の可能性を観測し、その中でもっとも高い確率で起こるであろう事象を取り出しているんですよね」
一茶は顔を上げ監視カメラを見るとそう言った。これはかつて紡に自分の目のことを質問して時に説明されたものだ。その時には、よく理解できなかったのだが、非日常に何度も触れた今となってはその意味がおぼろげながら分かる。
一茶の言葉に答え、頭の中に返ってくるのは『そうだ』という肯定のもの。それを聞くと一茶は続けて言葉を口にする。
「だったら、なんとかして起こりうるべき全ての事象を見ることはできないんですか」と。
『…』
 答えは沈黙だった。念話は切れたわけではない。一方通行であるもの、紡が言いあぐねていることが分かる。
 一茶はカメラをただじっと見つめた。その先にいる紡を見つめるように。
『…できる。しかし…』
 沈黙は壊れた。答えが返ってきたの約十秒後のことだ。
「しかし、なんですか」
『…それがどういうことか分かっているのか?
 人間に扱える情報量には限界というものがある。お前のその目がなぜ一番高い可能性しかお前に見せないと思う。それはお前を壊さないためだ』
「方法があるんですか」
『今の話を聞いていなかったのか?』
「あるんですね」
『よく考えろ…』
 紡は止めるが一茶は聞くつもりなど毛頭ない。だがら一茶はこの言葉を紡に向かって言った。
「もしも、最悪な未来が来るのが分かっていて、それを黙ってみていられますか?」と。
『…分かった。エレイシア、今の話を聞いていたか?』
「ええ」
『観測者の仮面の中央には安全装置がある。それを外してやればいい。
 それを外していつものようにキーワードを言えばいいだけだ』
 工藤はただ無言で頷くと一茶の仮面へと触れた。手に魔力を通して仮面の構造を把握すると安全装置を外す。
「工藤、いえ、エレイシアさん。
 ありがとうございます」
 一茶は工藤に礼をいうと静かに扉の前に立った。
「ヤ、やっパリやめまショウよ」
「だめ、彼は決めたのだから」
 恭子は止めに入るのだが、それは鈴穂が止めた。一茶の決意が分かっているからだろう。
「…調整開始」
 一茶は静かにキーワードを口にした。
 その瞬間に襲ってくるのはめまいだ。いつものめまいを何倍かにしたような激しいめまい。
 ここが何処だか分からないような激しい頭痛。上も下も分からず、右も左も分からないまま一茶は倒れこんだ。
だがそんな感覚など感じない。
いや、体の外など感じる余裕などない。彼の目にはありえないほどの未来が映っているのだから。
工藤が死んだ未来があった。魂を砕かれただ人形へとかわる姿があった。
大牙が死んだ未来があった。再生も追いつかないような傷を刻み付けられる姿があった。
鈴穂が死んだ未来があった。不老の薬として全身を摩り下ろされる姿があった。
恭子が死んだ未来があった。鎧が引きちぎられ中身を潰される姿があった。
そしてなにより…
自分が死ぬいくつもの未来が見えた。
心臓を突かれた。
首を刈り落とされた。
車にひかれミンチと化した。
水中に引き込まれ窒息した。
炎に焼かれ炭へと化した。
海で、山で、空で、地下で、宇宙で、ありとあらゆるところで殺された。
悲惨な未来を見るごとに体にありもしない痛みが走り続ける。
目から脳へ鉄の棒が通り抜ける感触があった。
毒を含み胃を溶解する痛みがあった。
四肢が千切れる痛みがあった。
気が狂いそうになる。いや狂っていたのかもしれない。
それでも正気でいられたのは、正気に戻れたのはその中には幸せな未来が、幸せに生涯を全うした老人の姿が見えたからだ。
そして…
「四、八、六、二、三…」
 途切れそうな意識の中現実に戻った一茶はそれだけを口にして意識を手放した。

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